最新更新日2020/07/25☆☆☆

シャーロックホームズの登場以来、全盛を誇っていた英国本格ミステリも第二次世界大戦以降は凋落の一途をたどることになります。まず、40~50年代にかけてはサスペンスミステリーの人気が高まり、60年代に入ると、英国ミステリー界全体がスパイ小説一色に染まったことで、本格ミステリは息も絶え絶えな状態になっていきます。そんななかで一人奮闘し、上質な本格ミステリを発表し続けたのがD・M・ディヴァインこと、ディヴィッド・マクドナルド・ディヴァインです。彼の作品は事件を鮮やかに解決する名探偵や驚嘆すべき大トリックなどといった要素には欠けており、悪くいえば地味です。しかし、同時に、彼の作品には黄金期の名作群とはまた違った味わいがあり、名探偵やトリックに頼らなくても優れた本格ミステリが書けることを証明しています。結果として、彼が残したのは13作品にすぎませんが、クオリティの高さは折り紙つきです。具体的にどのような作品があるのかを順を追って紹介していくことにします。
※紹介作品の各画像をクリックするとAmazon商品ページにリンクします

兄の殺人者(1961)
弁護士のサイモン・バーネットは亡き父の跡を継ぎ、兄のオリバーと共に事務所を営んでいた。ある日の夜遅く、サイモンはオリバーから事務所に呼び出される。深い霧の中をさ迷いながらもなんとか事務所にたどり着いたサイモンだったが、そこで彼が目にしたのは何者かの手により惨殺された兄の姿だった。警察はオリバーが卑劣なゆすり屋だと決めつけ、彼にゆすられていたとされる兄の知人を逮捕する。サイモンは知人の冤罪を晴らすと同時に兄の名誉を回復するべく、独自に調査を開始するが......。
◆◆◆◆◆◆
1920年生まれのディヴァインが41歳のときに発表したデビュー作です。ちなみに、本作は探偵小説のコンテストに応募して審査員だったアガサ・クリスティの絶賛を受けますが、応募規約に違反していたために受賞を逃しています。しかし、あまりにも良い出来だったために、出版社の判断で本となる運びになったわけです。とはいえ、ミステリーとしては派手な展開はなく、驚くようなトリックがあるわけでもありません。それにも関わらず、本作が高い評価を受けているのは二転三転する展開や登場人物が魅力的で、物語として非常に高い完成度を誇っていたからです。一方、本格ミステリとしても本作は決して凡庸なわけではありません。大きな仕掛けがなくてもロジックを丁寧に積み重ねることによって意外な真相を浮かび上がらせる手管は、ミステリマニアを唸らせるほどに見事なものです。関係者を全員集めて謎解きを始めるという古典的な手法も本作では効果的に作用しています。デビュー作にして、匠の技が光る傑作です。
1995年度このミステリーがすごい!海外部門14位
兄の殺人者 (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2010-05-22


そして医師も死す(1962)
医師のアラン・ターナーはスコットランドの小さな街で診療所を経営していたが、あるとき、共同経営者のヘンダーソン医師が不慮の死を遂げる。陪審員では事故死だという判決が出たものの、事件から2カ月が過ぎた頃、市長のバケットから状況の不自然さを指摘される。アランはヘンダーソンの死が計画殺人だったのではないかと疑念を抱くが、そうなると最も疑われるべきはアラン自身だった。なぜなら、彼はヘンダーソンの妻、エリザベスとの密通の疑いをかけられており、犯行機会の点からいっても最有力容疑者となるべき立場だったからだ。アランは彼自身とエリザベスにかけられた疑惑を晴らすために、独自に事件を検証するが......。
◆◆◆◆◆◆
前作同様に巧みなプロットとロジカルな推論の積み重ねが光ります。ただ、主人公の優柔不断ぶりには読んでいてイライラさせられる部分があり、その点は賛否の分かれるところではないでしょうか。また、真相の衝撃も前作に比べると今一つ及んでいない気がします。しかし、逆にいえば、さほど意外でもないはずの真相を最後の最後まで悟らせないミスディレクションの冴えはやはり見事ですし、「論理の穴」を巡る推理も印象的です。したがって、本作は、過大な期待さえ抱かなければ十分に楽しめる、堅実な第2作品というのが妥当な評価だといえるのではないでしょうか。
2016年度本格ミステリベスト10 海外部門 1
そして医師も死す (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2015-01-22


ロイストン事件(1964)
教師のスキャンダルを巡る名誉棄損訴訟において弁護士のマークは父の意に背き、義兄のデレクを偽証と証拠隠滅の罪で告発する。その結果、父の怒りを買って勘当されたマークだったが、4年後にその父から至急帰宅せよとの手紙が届く。困惑しながら久しぶりに実家に戻ってきたものの、結局、父との再会を果たすことはできなかった。なぜなら、デレクの勤める新聞社内で父が他殺死体となって発見されたからだ。父はマークが勘当されるきっかけとなったロイストン事件の再調査を行っていたという。果たして彼は何に気づき、そして、なぜ殺されたのか......。
◆◆◆◆◆◆
世間的にはあまり評価の高くない作品ですが、その理由は犯人の意外性に欠ける点と決め手となる証拠の曖昧さにあります。それによって、解決編のカタルシスが十分に得られないのは事実です。ただ、そこに至るまでの伏線の張り巡らせ方やロジックの構築といった要素はかなりのレベルですし、複雑な人間関係を分かりやすく書き分けながら物語を進めていく筋運びも見事です。なにより、謎解きミステリーというジャンルにこだわりぬいたうえで、丹念に練り込まれたプロットは非常に高い完成度を誇っています。ディヴァイン作品のなかでも特に地味で華に欠ける点は否定できないところですが、本格ミステリ好きなら読んで損のない作品であることは確かです。


こわされた少年(1965)
16歳の少年、イアン・プリットはかつては優等生だったものの、あることがきっかけで、不良少年たちとつるみ始め、生活も荒れていった。そして、霧の深い夜に家を出て行ってしまったのだ。姉のアイリーンは親に反抗しての単なる家出だろうと考えていたが、イアンを溺愛する母親に泣きつかれて警察に相談をする。ニコルソン警部とアイリーンは共に調査を開始し、失踪事件の背景と思われる事実が次第に浮かび上がってくる。だが、肝心のイアンの行方は杳として知れなかった。しかも、調査を進めるうちに、アイリーンの背後に魔の手が忍び寄り.......。
◆◆◆◆◆◆
少年失踪の調査が中心となる前半は派手な事件が一切起きず、読者によっては退屈に感じてしまうかもしれません。しかし、そんな中でも、複雑な人間関係の裏側が徐々に解き明かされていく展開は読み応えがありますし、語り手であるニコルソン警部やアイリーン自身の問題がそこに絡まり、話に奥行きを与えることにも成功しています。そして、中盤以降は新たな事実が次々と明らかになり、一気に面白さが増していきます。これまでと比べてやや変則的なプロットを採用しているものの、伏線やミスディレクションの配置、あるいは意外な犯人を演出する手管などはやはり見事です。ただ、全体的に話が暗く、ラストにも救いがない点に関しては好みが分かれるでしょう。


悪魔はすぐそこに(1966)
若き数学者のピーター・ブリームはハードゲード大学で講師として働いている。父のデモンズは世界的な数学者であり、同じ大学の教授をしていたのだが、8年前に亡くなっていた。ある日、亡父の友人である経済学者のハクストン講師がピーターに助けを求めてくる。横領の容疑をかけられ、免職の危機に陥っているというのだ。だが、ハクストンは審問会で脅迫めいた言葉を口にしたのちに、自宅で変死を遂げる。さらに、名誉学長の暗殺をほのめかす脅迫状が届く。果たして、一連の事件の裏には何が隠されているのだろうか?そして、8年前にデモンズを死に追いやった醜聞との関係は?
◆◆◆◆◆◆
ミステリー作家としてのディヴァインのテクニックが超絶技巧の域にまで達した作品です。まず、物語は登場人物の内面描写を交えながら三人称視点で語られていくのですが、巧妙なミスディレクションによって真犯人を隠匿する手管には感動すら覚えます。それに加えて、伏線の張り方もより巧妙になり、ヒントがたくさん示されているのにも関わらず、それらに気づかせない技の切れも超一級品です。同時に、登場人物の書き分けも巧みで、各キャラに明確な個性が与えられています。そのため、海外ミステリーにありがちな誰が誰だかわからないといった事態に陥ることもなく、読み手は印象深い登場人物たちを脳裏に焼きつけながら犯人探しに集中できるようになっています。もちろん、解決編の切れ味も抜群です。まさに、フーダニットミステリーのお手本であり、当たり外れの少ないディヴァイン作品のなかでも上位に位置する傑作だといえます。
2008年度本格ミステリベスト10 海外部門 2
悪魔はすぐそこに (創元推理文庫)
D.M. ディヴァイン
東京創元社
2007-09-22


五番目のコード(1967)
スコットランドの地方都市で高校に勤める女性教師が帰宅途中に襲撃を受け、殺されかける。そして、その事件を皮切りに次々と殺人事件が発生するのだった。しかも、犠牲者はいずれも絞殺され、現場には必ず8つの取っ手(コード)のついた棺桶が描かれたカードが残されるという共通点があった。これは8人の人間を殺すという犯人の意思表示なのだろうか?一方、地方紙の記者であるジェレミー・ブードルは、すべての犠牲者たちと関わりがある唯一の人物であったために事件への関与を疑われる。彼は自らの疑惑を晴らすべく、犯人の正体を追い求めるが........。
◆◆◆◆◆◆
エラリー・クイーンの『九尾の猫』を彷彿とさせるシリアルキラーものの本格ミステリです。同作品と同様にミッシングリンクの謎が中心に添えられているのですが、巧みなミスディレクションによって犯人の意図を見えにくくするテクニックが見事です。また、人物造形が巧みで、主人公や彼に協力して事件の謎を追うヒロインなど、登場人物がみな魅力的に描かれています。そのため、非常に読みやすく、あっという間に作品世界に引き込まれていくことになるのです。人が次々と死んでいく割にはサスペンス性はさほど高くないのですが、ストリーテリングの妙で読ませるのはディヴァイン作品ならではです。緻密なプロットも相変わらずで、謎解きミステリーとしても一級のクオリティを保っています。ただ、ミステリーを読み慣れている人であれば、犯人の正体を当てるのはそれほど難しくはないでしょう。とはいっても、別に伏線があからさますぎるとか、ロジックが簡単すぎるとかといった理由からではありません。伏線やロジックは巧妙に仕込まれているにも関わらず、ミステリー小説あるあるネタが用いられているために直感的にピンと来てしまうのです。したがって、一定数の読者はかなり序盤から真犯人の正体に気づきながらの読書を強いられることになります。非常に完成度の高い作品だけにその点だけがいささか残念です。なお、本作は1971年に『Giornata Nera per L'ariete(邦題:新・殺しのテクニック/次はお前だ!)』のタイトルでイタリア映画として公開されています。現在のところ、D・M・ディヴァイン唯一の映画化作品です。
1995年度このミステリーがすごい!海外部門19位
五番目のコード (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2011-01-28


The Sleeping Tiger(1968)※2021年5月28日に『運命の証人』の邦題で発売予定
2020年7月現在、日本では未訳の作品です。直訳すれば『眠れる虎』といったところでしょうか。その意味するところは眠れる獅子とほぼ同義であり、身に覚えのない2件の殺人の罪で告発されたことをきっかけに、弁護士である主人公が本来の自分を取り戻し、真犯人を突き止めるまでを描いた作品のようです。
The Sleeping Tiger (English Edition)
Devine, DM
Arcturus
2014-05-05


Death Is My Bridegroom(1969)
こちらも未訳作品です。邦題は『死は我が花婿』といった感じになるのでしょうか?地方の大学を舞台に、学生たちを中心とした複雑な人間模様と誘拐殺人の謎を描いた作品のようです。
Death is My Bridegroom
Devine, Dominic
HarperCollins Distribution Services
1969-01T


紙片は告発する(1970)
タイピストのルースは思慮の浅い人間性ゆえに、町議会議員の娘であるのにも関わらず、周囲からは軽んじられてきた。家でも出来の良い姉と比較され、鬱屈した日々を過ごす彼女だったが、ある日、勤務先の町政庁舎で奇妙で怪しげなことが書かれた紙片を拾い、それを警察に届けるつもりだと同僚たちに話してしまう。その夜、彼女は何者かに殺害され、死体となって発見される。現在、この町は町長選挙で揺れており、多くの人間が秘密を抱えていたのだ。副書記官のジェニファーもその一人であり、不倫関係にあった書記官のジェフリーが2人の関係発覚につながる手紙を落としたのではないかという疑念にとらわれていた.......。
◆◆◆◆◆◆
本作は最も評価の低いディヴァイン作品だといっても過言ではないでしょう。しかし、だからといって、全然棒にも箸にもかからない愚作だというわけではありません。たとえば、ルースが語り手のときには幼い自意識のフィルターがかけられて曖昧模糊だった世界が、語り手を聡明なジェニファーにチェンジした途端に何が起こっているのかが明快になるといった描写の対比は見事ですし、町政庁舎で繰り広げられる醜い権力争いやドロドロした人間関係のドラマも読み応えがあります。しかし、肝心の謎解きがパッとしないのです。ミスディレクションはほとんど機能していませんし、出てくるヒントはヒネリに欠け、あまりにもあからさまです。ミステリー部分に関しては、これまでの超絶技巧ぶりが嘘のようにあっさり風味な仕上がりになっています。一方で、余韻の残るラストを含めてストーリー自体は悪くないので、本格ミステリとしてではなく、地方政治の暗部を描いた社会派ミステリーとして読むべき作品だといえるかもしれません。
2018年度本格ミステリベスト10 海外部門 7
紙片は告発する (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2017-02-26


災厄の紳士(1971)
ネヴィル・リチャードソンはハンサムな見た目だけが取り柄の根っからの怠け者だ。ジゴロを気取ってなんとか糊口を凌いでいたものの、決して裕福だとはいえなかった。そんなとき、ある筋からうまい話が転がり込んでくる。著名な作家エリック・ヴァランスの娘であるアルマが、父の反対を押し切って婚約した男に捨てられたというのだ。早速、その傷心に付け込んでアルマに接近を図るネヴィルは、最初こそ彼女のわがままな言動に手を焼くものの、共犯者の的確なアドバイスを得て確実に彼女の心を籠絡していく。ついにはヴァランス邸に招かれ、あと一歩で計画成功のところまでこぎつけるネヴィルだったが、そのとき、とんでもない災厄が彼に襲いかかる。ネヴィルは何者かによって殺されてしまった。打ちのめされたアルマのために姉のサラが事件の真相究明に乗り出すが.......。
◆◆◆◆◆◆
前半が結婚詐欺を巡るコメディ風味のコンゲームになっており、そこから一転して殺人事件を巡る本格ミステリに切り替わるコントラストがなんとも鮮やかです。しかも、事件発生までを被害者であるネヴィル視点で描くことが犯人の正体を隠すミスディレクションの役割を果たしているところにもうまさを感じます。物語としての面白さを保ちつつ、読者に真相を悟らせない技巧を施している点などはやはり、ディヴァインならではです。登場人物が少ないので、犯人を直感で当てる人はいるかもしれませんが、ちゃんとした推理で導き出せる人はまずいないのではないでしょうか。それでいて、犯人の正体を知ってから振り返ってみると、多くの読者は「犯人はその人物しかありえないのに何故気付かなかったのだろう?」といった感想を持つはずです。この作品に用いられているミステリーとしての仕掛けはそれほどまでに優れているのです。『野獣死すべし』を始めとして2部構成の本格ミステリというのはいくつかありますが、本作はそれらのなかでも、その形式がもっとも巧みに用いられた作品の一つだといえます。
2010年度本格ミステリベスト10 海外部門 1
災厄の紳士 (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2009-09-30


三本の緑の小壜(1972)
夏休みに友人たちと泳ぎに出掛けた13歳の少女、ジャニス・アレンはその帰り道で行方不明となり、のちにゴルフ場で全裸死体となって発見された。有力な容疑者として町の診療所に勤める若い医師、テリー・ケンダルが浮上するも、ほどなくして彼は深夜の崖から転落して命を落としてしまう。犯行を苦にしての自殺だと噂されるなか、テリーの弟、マークは真相をつきとめるべく密かに調査を始めるのだった。ところが、再び13歳の少女が殺される。一体、犯人はなぜ13歳の少女ばかりを狙うのか?
◆◆◆◆◆◆
事件の発端が少女の全裸死体というのは、まるでサイコサスペンスを先取りしたかのような展開ですが、ディヴァイン作品だけあって猟奇的な趣向は極めて希薄です。その代わり、各章の冒頭に被害者たちに危険が忍び寄るシーンを配置することによって、サスペンス性を高めることに成功しています。また、語り手の一人となるマンディや13歳の少女アンなどといった登場人物も魅力的であり、物語世界に読者を引き込む牽引力になっています。さらに、語り手をバトンタッチしていき、さまざまな視点から事件を描くことで、ストーリーに深みを与えている点も見事です。特に、クライマックスに向けての盛り上がりには心踊らされるものがあります。ただ、本作は『紙片は告発する』と同じようにミスディレクションがあまり施されておらず、犯人の正体が分かりやすいのが玉に瑕です。そのため、ディヴァインの得意とするフーダニットミステリーとしては高い点数をあげることはできません。その代わり、心理サスペンスとしてみた場合は、実に読み応えのある傑作だといえます。
2012年度本格ミステリベスト10 海外部門 1
三本の緑の小壜 (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2011-10-29


跡形なく沈む(1978)
憎み続けていた母が死に、彼女の遺品から顔も知らない父の手掛かりを得たルース・ケラウェイは小都市シルブリッジに渡り、父親への復讐の準備に着手する。一方、シルブリッジの役所に勤めるケン・ローレンスは同じ職場で働くことになったルースに興味を惹かれ、やがて彼女が見知らぬ父を探しながら、数年前に起きた協議会議員選挙における不正についても調べていることを知るのだった。ルースの不可解な行動は町の人々の動揺を誘い、ついに事件が発生する。ルース・ケラウェイが何者かに殺されたのだ。ケンは元婚約者のジュディとともにその事件に巻き込まれていくが.........。
◆◆◆◆◆◆
デビュー以来、ほぼ毎年新作を発表し続けていたディヴァインにしては珍しく、前作から6年のインターバルを経て発表された作品です。しかも、本作は彼が生前最後に発表した作品でもあります。最大の読みどころはなんといっても、多彩な登場人物たちが織りなす人間模様です。視点人物が何度も変わるなかで、実に多くのキャラクターが登場しますが、彼らを見事に描き分け、それぞれの個性を鮮明に浮かび上がらせている点は作者の円熟の味を感じさせてくれます。同時に、それぞれの心理描写が見事で、人間関係が複雑に絡み合うドラマには引き込まれるものがあります。加えて、ルースによってまかれた火種が町の政治にまで波及していくなど、この先どうなっていくのかが気になる筋運びも秀逸です。さらには、主役2人による切ない恋愛模様も大きな見どころとなっています。このように、ドラマ的には非常に充実している本作ですが、謎解きミステリーとしては伏線が弱くて犯人を特定する推理にキレがないなど、全体的に完成度の低さが目につきます。とはいえ、犯人の正体が明らかになる終盤の展開はスリリングですし、ラストの締め方も印象的です。物語としては十分に読み応えがある佳品だといえます。
2014年度本格ミステリベスト10 海外部門 4
跡形なく沈む (創元推理文庫)
D・M・ディヴァイン
東京創元社
2013-02-28


ウォリス家の殺人(1981)
歴史学者のモーレス・スレイターは、少年時代に兄弟同然に育った人気作家のジェフリー・ウォリスの邸宅を訪問する。最近様子のおかしいジェフリーを心配した家族に懇願されての来訪だった。どうやらジェフリーは兄のライオネルから脅迫を受けているらしい。それに加え、ジェフリーが長年書き続けていた日記を出版しようという計画が、一族の複雑な人間関係に強い緊張感をもたらしていた。そして、ある夜、ジェフリーとライオネルは、コテージに争った痕跡と大量の血痕を残して行方不明となる。果たして、ここで何が起きたのか?
◆◆◆◆◆◆
死後に発表されたディヴァインの遺作です。ただ、彼が最後に書いた作品だというわけではないらしく、作中の年代などからデビュー作の『兄の殺人者』と同時期のものではないかと推測されています。そういえば、デビュー以降ずっと1年1作ずつ発表しているのに『そして医師も死す(1962)』と『ロイストン事件(1964)』の間にだけ1年の空白があるのですが、もしかすると、そのときに書かれた作品なのでしょうか。だとしたら、どうしてお蔵入りになったのか意味がわかりません。なぜなら、本作は『そして医師も死す』や『ロイストン事件』などよりずっと完成度が高いからです。登場人物が少なくてすっきりした読み応えなのにもかかわらず、犯人の正体を容易に悟らせないミスディレクションの冴えはかなりのものですし、読み直してみると犯人に直結するヒントを堂々と配置している大胆さにも驚かされます。それに、個性的な登場人物がドロドロのドラマを展開するというディヴァインならではのドラマ性の高さが備えられており、ジワジワとサスペンスを盛り上げていく手管も見事です。ただ、強いて挙げるならば、犯人を指摘するシーンがあっさりしすぎて盛り上がりに欠ける点が欠点だといえるかもしれません。とはいえ、極めてレベルの高い作品であることは確かで、代表作の一つに数えられるのは間違いのないところです。
2009年度本格ミステリベスト10 海外部門 1
ウォリス家の殺人 (創元推理文庫)
D.M. ディヴァイン
東京創元社
2008-08-30



あとがき
D・M・ディヴァインが世に出した13の長編小説は力作揃いで、駄作というべきものは一冊たりとも存在しません。したがって、発表年数の順に読んでいくのも一つの手です。しかし、謎解きを存分に楽しみたいというのであれば、物語としては読み応えがありながらもフーダニットミステリーとしては比較的薄味の、『紙片は告発する』『三本の緑の小壜』『跡形なく沈む』の3作は避けたほうが無難かもしれません。また、本格ミステリ作家D・M・ディヴァインの極上の部分だけを味わいたいというのなら、『兄の殺人者』『悪魔はすぐそこに』『五番目のコード』『災厄の紳士』『ウォリス家の殺人』の5作品がおすすめです。いずれにしても、戦後の、特に60年代以降の英国ミステリーは謎解き要素が薄くてつまらないと思い込んでいる人はD・M・ディヴァインの作品を一度手にしてみることをおすすめします。きっと認識が変わるはずです。