最新更新日2019/05/27☆☆☆

社会派ミステリー全盛の時代に本格ミステリを支えた作家といえば鮎川哲也を始めとして佐野洋、都筑道夫などがいますが、忘れてはならないのは土屋隆夫です。40代でのデビューという遅咲きの作家で、発表した作品の数も決して多くはありませんでしたが、時間を掛けて丹念に作り上げられた作品には名品の輝きがありました。派手さには欠けているものの、どの作品も本格ミステリとして極めて高いレベルにあったのです。それに加えて、芳醇な文学の香りが味わえるのも著者ならではの特徴です。具体的にどのような作品があったのかを紹介していきます。
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天狗の面(1958)
天狗伝説の伝わる信州の牛伏村では隣接する横手村との合併問題を巡り、村議会選挙が過熱していた。現職議員の池内市助は合併には反対で合併推進派の小木勝次と激しく争っていたのだ。その市助が急死する。おりんという女性が教祖となって広まった天狗信仰の集会に出席し、お茶を飲んだところで苦しみ始めたのだという。おりんは市助に万病に効く水を飲ませるが、そのかいなく血を吐いて絶命したというのが目撃者から得た証言だった。警察の調べで死因は農薬で使われるパラチオンの中毒死であることが判明する。だが、衆人環視の中でその毒を市助に飲ませる機会があるものは誰もいなかった。捜査は完全に行き詰まり、そんな捜査陣をあざ笑うかのように新たな事件が発生する........。
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第三回江戸川乱歩賞の最終候補作に残り、仁木悦子の『猫は知っている』と受賞を争ったデビュー作です。古い因習の残る寒村で起きた奇怪な事件を描いており、あからさまに横溝正史からの影響が見受けられます。次作以降、社会派ミステリーのムードが漂う都市部での犯罪を描いていった作風とはえらくギャップを感じます。その辺りはデビューと時を同じくして社会派ブームが巻き起こったのと関係しているのではないでしょうか。とはいえ、本作も本格ミステリとしてはなかなかよくできた作品です。特に、第1の毒殺トリックは人間心理の盲点をついた巧みなものです。続くアリバイトリックも単純ながらも、ミスディレクションを効果的に使っているのが印象に残ります。驚くような仕掛けはないものの、その扱い方が非常に上手いのです。テンポも良く、中弛みがない点も高評価ポイントだといえるでしょう。また、物語は横溝正史風でありながらも、文章が牧歌的でユーモラスな点も独特の味となっています。あえて欠点を挙げるとすれば、最初の毒殺トリックは勘の良い人ならすぐにピンとくる可能性があり、そうなるとその瞬間に犯人が分かってしまう点でしょうか。逆にいえば、その点以外は極めて完成度の高い端正な本格ミステリです。「探偵小説は割り算の文学である。そこにはいささかの余りがあってもならない」という自らの言葉を体現した秀作に仕上がっています。


天国は遠すぎる(1959)
自殺した若い女の遺書には死を誘う歌として世間を賑わせている”天国は遠すぎる”の歌詞が綴られていた。その翌日、長野県庁土木課長の深見浩一が失踪し、絞殺死体となって発見される。深見は収賄疑惑で警察からマークされていた人物だ。容疑者として浮かび上がったのは建設会社社長の尾台久四郎。だが、彼には鉄壁のアリバイがあった。一方、女性の自殺に疑念を抱いた久野刑事は執念の捜査の末、深見殺しとの接点を見付けるが.....。
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容疑者のアリバイ崩しを主眼とした本格ミステリですが、そのアリバイが問題となるのは中盤以降です。それまでは曖昧模糊とした事件の全貌を明らかにするべく、ひたすら地道な捜査が続きます。しかし、だからといって冗長に感じるかといえば、全くそんなことはありません。さまざまな謎が浮かび上がり、巧みに読者の興味を引き付けていきます。後半のアリバイ崩しも、トライアンドエラーを繰り返しながら次第にその牙城を突き崩していく展開はこれぞ本格ミステリといった魅力にあふれています。使用されているアリバイトリックも心理的盲点を突いており、なかなか巧みです。また、佐野洋に「これほど刑事をうまく描いた作品は初めてだ」といわしめた執念の捜査の描写も読みどころの一つになっています。さらに、作品のタイトルになっている暗い流行歌の歌詞も事件の謎めいた雰囲気を高めてくれます。短くて作風もどちらかといえば地味なのですが、その中にさまざまな魅力が詰まっているいぶし銀の佳品です。


危険な童話(1961)
ピアノ教室の先生をしている木崎江津子の自宅で男が死体となって発見される。彼は江津子の従兄であり、傷害致死の罪で刑務所に入っていたのだが、模範囚として3日前に仮出所していた。江津子の話によると、従兄が訪ねてきたので出所祝いのお酒を買いに行き、戻ってみると殺されていたのだという。だが、現場の状況から判断して犯人は江津子だと考えるのが妥当だった。江津子は拘留されるが、頑なに犯行を否認する。自供を得られず、肝心の凶器も見つからないため、捜査陣は次第に苦しい立場に追い込まれていく。しかも、しばらくすると、犯人を名乗る何者かがハガキを送ってきたのだ。そのハガキには犯人しか知り得ない事実が記されていた。捜査陣は共犯の存在を疑うが、該当する人物は誰も浮かび上がってこない。やがて、再びハガキが届き、今度は凶器の隠し場所が記されていた。ハガキに書かれた場所から凶器のナイフが発見され、ついに江津子は釈放される。だが、ベテラン刑事の木曾俊作はあくまでも彼女が犯人だという考えを変えず、地道な捜査を続けていくが......。
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作者が標榜していた文学と謎解きの融合が最も高いレベルで実現した作品の一つです。重苦しい物語の中に幻想的な童話を挿入することで、作品全体がなんとも物悲しい雰囲気に包まれ、文学的な香りが立ち上っていきます。しかも、その童話が雰囲気作りだけで終わらず、ミステリーの仕掛けとして機能している点に驚かされます。一方、凶器消失など、その他のトリックはどれも小粒です。したがって、犯人の仕掛けるトリックに期待しているとがっかりするかもしれません。しかし、指紋の工作だけは少々難があるものの、細かいトリックの積み重ねは実によく考えられています。そして、童話と事件の繋がりが判明する瞬間こそが本作のクライマックスです。無邪気さの中に残酷さが秘められている童話のような題材はしばしば童謡殺人のモチーフとして使用されたりしますが、このように意外な使われ方をされた例というのはなかなかないのではないでしょうか。一級のプロットで構成され、その抒情性の高さが忘れ難い読後感を残す傑作です。
影の告発(1963)
ある春の日、大勢の客でにぎわうデパートの中で殺人事件が発生する。満員のエレベーターが7階に到着した直後、中年の男が「あの女がいた」とつぶやいてそのまま倒れたのだ。死んだ男は光陽学園の校長で死因は臀部にストリキニーネを注射されての毒死だった。偶然、現場にいた検事の千草泰輔は事件当初から捜査に加わり、やがて、シナリオライターの宇月悠一へとたどり着く。千草検事はこの男が犯人だと睨むが、彼には鉄壁のアリバイがあった.......。
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土屋隆夫作品唯一のシリーズ探偵である千草検事の初登場作品です。同時に、日本推理作家協会賞を受賞したこともあって、長い間『危険な童話』と並ぶ土屋隆夫の代表作と目された作品でもあります。ただし、近年ではその評価もやや低下しているようです。確かに、各章の冒頭に挿入された謎めいた少女のモノローグには著者の特徴である強烈なロマンチシズムが漂っていますし、作品の柱となるアリバイ崩しもよくできています。しかし、前者に関しては『危険な童話』に挿入されている童話のようなミステリーとしての仕掛けは希薄です。そして、後者のアリバイトリックも海外の過去作に前例があります。もちろん、トリックに前例があるからといって必ずしもその作品が全否定されるものではないのですが、本作の場合は推理可能な要素はアリバイ崩しぐらいです。したがって、先に海外作品を読んでしまっていると、トリックにすぐに気がついてしまい、読書の楽しみが大幅に減退してしまうことになります。ただ、それでも、読みやすい文章で綴られた捜査物語としての面白さは一級品です。該当する海外作品を先に読んでいるか、また、アリバイ崩し一本やりのストーリーを楽しめるかどうかで評価の変わってくる作品だといえます。
第16回日本推理作家協会賞受賞
千草検事は大学時代の旧友・坂口秋男の訪問を受ける。彼は千草に対し、失踪した妻を探すために所轄の署長を紹介してほしいというのだ。1年前に一人息子を失っている坂口に同情した千草は助力を約束する。やがて、坂口の妻らしい女性が長野の温泉に現れたという情報を入手するものの、その女性も行方をくらましてしまう。そして、巻き起こる連続殺人。犯人が残す赤い謎は一体何を意味するのか?
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登場人物は限られており、事件そのものの構図は比較的早い段階で予想がつきますが、中盤以降、秘められた裏の事情が次々と明らかになり、混迷の度合いを深めていくプロットに引き込まれていきます。そして、白眉といえるのがメイントリックです。アンフェアギリギリの大胆な仕掛けに驚かされます。また、登場人物もみな魅力的で物語としても読みごたえがあります。格調高い文章で書かれた、文学の香り豊かな傑作です。


針の誘い(1970)
千草検事は閑静な住宅街で半狂乱になって飛び出してきた女と出くわす。女は「ミチルちゃん、ミチルちゃんがいないの」と口走っていた。話を聞くと、彼女は製菓会社の社長宅で雇われているお手伝いさんで、社長の妻である里子が交通事故にあったという偽の電話で社長の由人と共に外におびき出されたのだという。そして、家を空けたわずかな隙に、何者かがまだ1歳の社長の娘を連れ去ったのだ。千草検事は警察に連絡し、社長宅の捜査を行う。その結果、見つかったのは「子供は500万円と引き換えだ。もし警察に知らせれば子供の命はない」と書かれた脅迫状だった。すでに誘拐の事実は警察の知るところとなっていたが、秘密裏に行動することを条件に警察は事件への関与を続ける。脅迫状に書かれた身代金の受け渡し場所は石材店の石置場だった。そこに11~12時の間に金を持って里子一人でこいという。由人と部長刑事の村瀬が車の中で見守る中、里子は石置場で犯人が現れるのを待つが、突然、身代金の入った風呂敷を放り投げるとその場に倒れてしまう。2人が里子の元にかけつけたとき、彼女はすでに息絶えていた。何者かに刃物で刺し殺されたのだ。身代金は近くに投げ捨てられたままだ。一体犯人の目的は?
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赤ん坊の誘拐とそれに伴う殺人を扱った作品ですが、サスペンス溢れる展開に思わず引き込まれていきます。歴代の誘拐サスペンスものの傑作と比べても遜色のない出来ではないでしょうか。もっとも、本作はサスペンスではなく、本格ミステリです。殺人があったあとは誰が里子を殺したかという問題に焦点が移されるのですが、犯人の正体は比較的早い段階で目星がつきます。驚くべき大トリックがあるわけでもありません。その代わり、細かなトリックが幾重にも仕掛けられており、その巧妙さには思わず舌を巻いてしまいます。トリックの波状攻撃によって読者の目を巧みに真実から逸らしているのです。技巧の冴えでは土屋作品の中でも随一だといえるでしょう。本格ミステリの教科書というべき傑作です。


妻に捧げる犯罪(1972)
交通事故で男性としての機能を失ってしまった短大助教授の日野克一。妻はそんな彼を裏切り、不貞を働いた上で愛人と一緒に死んでしまう。やり場のない感情を発散すべく、いつしか克一はイタズラ電話の常習犯になっていた。見知らぬ相手に「あなたの妻(夫)は浮気をしている」と吹き込み、自分と同じ苦しみを味あわせようとしたのだ。そんなある日、彼のかけた電話は殺人事件の現場へとつながってしまう。手掛かりは女の発した台詞のみ。そこから克一は事件の真相に迫ろうとするが......
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本作はこれまで一貫して書き続けていた本格ミステリとはガラリと趣を変えたサスペンスミステリーです。とはいうものの、電話から得られたわずかな手がかりから相手の正体を推理するくだりなどは謎解きミステリーとしての面白さがあります。また、偏執狂じみた男が語り手を務め、殺人犯を追い詰めていくプロットも通常のサスペンスものと比べるとかなり異質です。全編にブラックユーモアが満ちており、他の土屋作品にはない魅力を感じさせてくれます。ただ、善良とは言い難いクセのある主人公を受け入れられるかどうかで評価は変わってくるでしょう。それから、終盤の展開がやや失速気味なのが残念なところです。


盲目の鴉(1980)
文芸評論家の真木英介は田中英光全集の解説の仕事を引き受け、執筆のための情報収集を始める。その一環として田中英光が妻を刺した際に取り調べをおこなったという元警察官に話を聞くことになった。だが、信州小諸に向かった英介は元警察官の義理の娘である志乃に会ったきり、行方がわからなくなってしまう。数日後、小諸市の郊外で圭介の上着が発見される。そのポケットには男性の小指と「私もあのめくらの鴉の」と書かれたメモが入っていた。一方、世田谷の街を歩いていた千草検事は喫茶店から出てきた若者がコーヒーに混入していた青酸カリによって毒死するという現場にでくわす。しかも、喫茶店の客は誰も彼のコーヒーに毒を入れる機会はなかったというのだ。かといって、その若者と面識のない喫茶店の主人やウエイトレスが犯人だとも思えなかった。殺された若者の名は水戸大助といい、自作の戯曲が入選した雑誌を喫茶店で熱心に読んでいたという。さらに、大助は喫茶店で電話を受けており、電話口で「白い鴉」という言葉を繰り返していたというのだが.......。
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8年ぶりの新作長編です。この時点で著者の年齢は60を超えており、元々数年に1度だった新作発表のペースが、これ以降、ますます遅くなっていくことになります。作品の中身も往年の作品と比べると緻密さに陰りが見えてきているように思えます。トリックも小粒です。ただ、その反面、文学性は今まで以上に濃厚になっており、文学ロマンに殺人事件の謎を絡めた物語には大いに興味をそそられます。文学に関する描写が多くて少々冗長な点は賛否の分かれるところですが、それらの蘊蓄が作品全体に漂う寂寥感と重なり合い、格調高い作品に仕上がっているのです。ケレン味には欠けるものの、なかなかの良書だといえるのではないでしょうか。


不安な産声(1989)
大手薬品メーカーの社長宅で住み込みのお手伝いが強姦された上で絞殺される。容疑者として医大教授の久保伸也の名前が挙がり、彼自身も罪を認めて犯行を自供する。だが、死体から検出された体液は伸也のものとは異なり、また、アリバイも成立したことから千草検事はこの事件に対して全く納得できないでいた。そもそも、一体なぜ、地位も名誉もある男がほとんど面識のない女性を手にかけたのか?
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本作は千草検事シリーズの最終作なのですが、同時に本編の3分の2が犯人の手記で占められるという異色作でもあります。犯人は最初から明白であり、アリバイのからくりもすぐにわかるので、物語の焦点は犯人の動機だけに絞られることになります。いわゆるホワイダニットものです。しかし、この犯行理由についても物語の半ばで予想がついてしまいます。したがって、過去作のような精緻な本格ミステリを期待すると肩すかしをくらってしまうでしょう。その代わり、巧みな文章によって描かれた犯人の物語は非常に読み応えがあります。最後の皮肉な結末もなかなか衝撃的で、本格ミステリとしてよりも倒叙ミステリーとして優れた作品であるといえます。ただ、シリーズ最終作であるのに肝心の千草検事の出番が少ないのはいささか残念ではありますが。
華やかな喪服(1996)
夫から離婚を迫られていた北条由紀は生後4カ月の娘と共に、突然誘拐されてしまう。見知らぬ男は何も告げず、車に乗せた由紀をさまざまな場所に連れ回すのだった。男のあまりにも不可解な行動に、由紀は不倫の証拠をでっちあげるために夫が仕組んだことではないかと疑う。一方、大泉警察署では江守警部補が職場に出てこなくなり、その理由を探っていた。誘拐事件と大森署の一件はどのようなつながりがあるのか?
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『針の誘い』と同じ誘拐ものですが、あちらがあくまでも本格ミステリに徹していたのに対して、本作はミステリー度は極めて低く、どちらかというと恋愛描写がメインの作品となっています。したがって、謎解きを期待して読むと『不安な産声』以上に失望することになるでしょう。一方で、錯綜した人間模様を描いた物語としてはなかなかの読み応えです。切ないラストも心に残り、人間ドラマとしては十分に及第点だといえます。ただ、現代の話なのに国定忠治とかディック・ミネとかいちいち道具立てが古すぎる点は気になるところです。
華やかな喪服
土屋 隆夫
光文社
1996-06


ミレイの囚人(1999)
精神の均衡を失っているとしか思えない少女、白川ミレイ。彼女はかつて自分の家庭教師をしていた人気ミステリー作家の江葉章二を言葉巧みに誘い、自宅に監禁してしまう。一方、その頃、新人賞を受賞したばかりの作家が殺される。果たしてミレイの目的は?そして、新人作家の殺人と流行作家監禁事件はどうつながるのか?
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女性が人気作家を監禁といえば、スティーブン・キングの『ミザリー』を想起しますが、本作はそれを反転させて本格ミステリに仕立てている点に独自性があります。トリックも掟破りの意表をついたものであり、真相が明らかになったときの衝撃はかなりのものです。とはいっても、仕掛け自体は極めてシンプルで、決して特筆すべきものではありません。その代わり、それを気付かせないようにするためのミスディレクションが実に巧妙なのです。『針の誘い』以降、徐々に本格色が薄くなっていた著者ですが、80歳を超えてからこれだけの野心作を発表した事実には驚かされます。ただ、それだけに、最後に語られる動機がちょっととってつけた感があるのが惜しまれます。


聖悪女(2002)
ホスピスで死期を待つ老女、星川美緒。彼女の数奇な運命は三つの乳房を持っていたことから始まった。そこに触れた初恋の男性が事故死したのを自分のせいだと思いこんだ彼女はさらなる災いを恐れて、養父母の家を飛び出した。そして、水商売をしながら各地を転々としていく。だが、東京に戻ったとき、災厄が再び美緒の身にふりかかる。25歳のときに美緒が遭遇した殺人事件の真相とは?
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ヒロインの数奇な運命を描くことに主眼が置かれており、土屋隆夫の長編作の中でおそらく最もミステリー色の薄い作品です。一応ミステリーっぽく描かれており、トリックも用いられていますが、ミステリーファンを満足させるレベルではありません。逆に、ミステリーに対するこだわりが足かせになっている感さえあります。心理描写などは巧みなだけに、この作品に限って言えば、普通小説に徹したほうがよかったのではないでしょうか。
聖悪女 (光文社文庫)
土屋 隆夫
光文社
2004-10


物狂い(2004)
長野県の美岳市で、市役所に勤務する24歳の女性が首筋を引っ掻かれて流血するという事件が起きる。女性の悲鳴を聞いて2人の男性がすぐに駆けつけたが、犯人の姿は見ていないという。警察が現場検証をした結果、2人の目をかいくぐって逃げ隠れするのは不可能だという結論に達した。しかも、女性は幽霊に襲われたと証言する。近隣は幽霊騒動に沸き立ち、そんな中、第2の幽霊事件が発生する。そして、第3の事件において、それはついに殺人にまで発展し.......。
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物語は大きく分けて、前半の幽霊騒動と後半のアリバイ崩しの2部構成になっていますが、正直どちらもパッとした出来ではありません。消失トリックもアリバイ工作も使い古されたアイディアです。それに、往年の土屋作品のような、既存のトリックを積み重ねて大きな効果を上げるという緻密さにも欠けています。『華やかな喪服』以降、サスペンスの方向に舵をとってきた著者がここにきて原点回帰の本格ミステリに挑戦したわけですが、その結果は作家としての老いを感じさせるだけに終わってしまっています。ただ、著者のデビュー作『天狗の面』で探偵役を務めた土田巡査の息子が土田警部として登場しているのはファンとしてはうれしいところではないでしょうか。
物狂い (光文社文庫)
土屋 隆夫
光文社
2006-09-07


人形が死んだ夜(2007)
咲川紗江は母の松代と12歳になる甥の俊を連れて志木温泉へ旅行に出掛ける。俊の母は彼が3歳のときに白血病で亡くなり、父親は誰なのかも不明だった。そのため、
紗江が母親代わりになって育ててきたのだ。ところが、俊は旅行先でスケッチをするといって外に出たきり戻ってこない。そして、血を流して死んでいるのが発見される。彼は轢き逃げにあったのだ。唯一の目撃者である南原の証言に不審なものを感じた紗江は彼に近づいて真実を暴こうとするが.....。
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本作はなんと、作者が90歳のときに発表した作品です。それだけに老いを感じさせる部分はかなり目立っています。視点人物を変えながら何度も同じシーンを繰り返して描写しているところなどは老齢期に入った人間特有のくどさですし、視点の乱れからくる違和感も随所に見受けられます。しかし、それでも文章自体は読みやすいので、さほど苦労することなく読み進められるのはさすがというべきでしょう。そして、ミステリーとしては単純な謎解きではなく、倒叙ミステリーの変奏曲とでもいうべき、独自のプロットを採用している点が目を引きます。また、前作から引き続いて登場する土田警部の行く末もなかなか衝撃的です。正直、本作を本格ミステリとしてみた場合は瑕疵も少なくないのですが、90歳になっても新たなミステリーに挑戦しようとする作者の姿勢にはただただ驚くばかりです。なお、土屋隆夫は本作を発表した4年後にこの世を去っています。94歳でした。
人形が死んだ夜 (光文社文庫)
土屋 隆夫
光文社
2010-05-11


あとがき
土屋隆夫の作品は大きく3つの時期に分かれます。まず、初期は社会派ミステリー全盛の時代に書かれた『天狗の面』から『針の誘い』までの6作です。これらはすべてトリックやプロットを考え抜いた上で書かれており、外れがありません。どれも本格ミステリの名品です。次の中期が、『妻に捧げる犯罪』から『不安な産声』までです。17年間で3作という寡作ぶりで、しかも、オーソドックスな本格ミステリからの逸脱が目立ちます。しかし、一作一作に独自の工夫が凝らされており、読み応えは十分だといえます。そして、最後の後期が、『華やかな喪服』以降の5作です。本格色が薄くなり、クオリティの低下は誰の目からも明らかになりますが、80歳を超えてコンスタントに作品を発表し続けていたという事実がむしろ驚きです。以上の点を踏まえて、興味のある時期の作品から読んでいけば、より一層土屋作品を楽しむことができるのではないでしょうか。


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