最新更新日2019/02/26☆☆☆

鮎川哲也は日本の本格ミステリ史において最も偉大な作家の一人です。作品数自体はそれほど多くありませんが、社会派ミステリー全盛の時代だった50年代後半から60年代にかけて本格ミステリのみをひたすら書き続けた事実は驚嘆に値します。しかも、その作品の質が恐ろしく高かったのです。鮎川哲也の作品をあまり知らないという人のために、すべての長編作品を取り上げ、一つ一つ解説をしていきます。
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ペトロフ事件(1950年)
大金持ちのロシア人、イワン・ペトロフは日本の植民地である満州に亡命し、海水浴で有名な夏家河子の鉄道駅近くに住んでいた。彼は生涯独身を貫いており、子どもはいなかったものの、3人の甥がいる。遺産は彼らに相続させるつもりだったが、結婚問題でイワンと甥たちは対立し、場合によっては3人とも相続人から外されかねない状況だった。そんなある日、甥の一人がイワンに呼び出され、
夏家河子の邸宅に出向く。しかし、そこで見たものは銃で撃たれて死んでいるイワンの姿だった。ロシア語が話せるということで鬼貫が捜査を任され、事情聴取をしたところ、甥の3人はみな金に困っており、動機は十分だということが判明する。ところが、3人ともアリバイが成立したのだ。鬼貫はその内の一人のアリバイを崩して身柄を拘束するが.....。
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本作は鮎川哲也の長編デビュー作ですが、世に出るまではかなり紆余曲折な経緯がありました。まず、作品を最初に書き上げたのが戦時中に満州にいた頃の話です。ところが、満州から引き揚げる際に原稿を紛失してしまいます。戦後になって記憶を頼りに新たに書き直し、雑誌・宝石の懸賞に応募したのが1949年です。そこで、見事に第一席を獲得し、翌年には雑誌掲載もされます。ところが、宝石の発行元である岩谷書店が経営不振で賞金の100万円が払えず、両者の関係がこじれてしまいます。困窮状態にあった鮎川哲也がしつこく賞金の支払いを迫ったため、相手の怒りを買い、本作の出版が見送られてしまったのです。結局、鮎川哲也の名が世間に広く知られるようになるには、1956年に『黒いトランク』が発表されるのを待たなければなりませんでした。さて、肝心の『ペトロフ事件』の内容ですが、これは著者自身も認めているように、F・W・クロッフの影響を強く受けたアリバイ崩しものになっています。時刻表の小さな数字をチェックしながら、アリバイの矛盾点を探していく物語は地味で好き嫌いの分かれるところです。トリック自体も今となっては新味はありません。しかし、精緻で隙のないプロットはさすが鮎川哲也です。その上、単なるアリバイ崩しものとして終わるのではなく、最後にひとひねり加えているのも巧妙です。また、満州が舞台のミステリーというのも珍しく、当時の雰囲気が満喫できるのも本作ならではの魅力だといえます。まだまだ本領発揮とまではいかないものの、鮎川哲也を語る上で欠かせない作品であることは確かです。


黒いトランク(1956年)
1949年12月。汐留駅でトランクに詰められた男の死体が発見される。死後数日経過しており、死体からは異様な臭気が漂っていた。警察はそのトランクが福岡県の札島駅から近松千津夫の名で発送されていることを突き止め、彼の行方を追う。だが、
千津夫は岡山県の海で死体となって発見される。警察は千津夫が男を殺して自殺したものと判断し、事件は解決したかのように思われた。だが、鬼貫警部はかつての想い人である千津夫の妻から夫の無罪を訴えられ、独自の捜査に乗り出す。地道な捜査の末、容疑者が浮かび上がるが、その前には鉄壁のアリバイが立ち塞がっていた......。
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戦後国内本格ミステリを代表する傑作であり、この作品を発表したことで鮎川哲也の名は一躍有名になります。クロッフの『樽』からインスパイアを受けた作品であり、一見、樽をトランクに置き換えただけのようにも見えます。しかし、その緻密さは本家の数段上をいっており、しかも、トランクの移動がすべてアリバイ工作のためだけに行われているというアイディアが秀逸です。その核となっているのは案外単純なトリックではあるのですが、ミスディレクションを施すことによって見事に難攻不落のアリバイを構築することに成功しています。その緻密さは数ある本格ミステリの中でも屈指の完成度だといえるでしょう。また、作風自体は地味ながらも、鬼貫がトランクの謎を追って各地を飛び回ることで旅情気分を味わえるのも作品に彩りを与えています。ただ、犯人は最初から目星がついており、ミステリーとしての仕掛けも複雑な糸を徐々にひも解いていくといったタイプであるため、鮮やかなどんでん返しでびっくりしたいという人には向いていないかもしれません。
黒いトランク (創元推理文庫)
鮎川 哲也
東京創元社
2002-01-25


りら荘事件(1958年)
りら荘は、証券会社の社長が所有していた別荘を大学が買取り、学生のレクリエーション施設として解放したものだった。そこに、男性4人女性3人の計7人の学生が訪れる。だが、彼らは全員が仲よしグループというわけではなく、そこはかとなく険悪なムードに包まれている。しかも、その夜に仲間の2人が婚約を発表し、密かに想いを寄せていた他のメンバーがショックを受けるという一幕もあったのだ。その翌日、みんなでトランプをすることになるが、なぜか13枚のスペードが抜き取られていた。さらに、りら荘の近くにある崖から炭焼きの男が転落して死亡する。最初は事故かとも思われたが、死体のすぐそばにはスペードのエースが置かれていた。これが連続殺人事件の始まりだった。
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鬼貫警部を探偵役に据えたアリバイ崩しものが大半を占めている鮎川作品としては珍しく、オーソドックスな館ものに挑戦した作品です。『グリーン家殺人事件』のようにバタバタと人が死んでいく話であり、鬼貫警部が探偵役を務めるにはちょっと不似合いな面があります。そのため、本作には探偵役として天才型探偵の星影竜三を登場させています。ただ、この探偵自身はキャラクターとしてあまり魅力的でなく、しかも、最後に出てきてあっという間に解決してしまうので、ほとんど解説役のようなものです。その上、主要人物である7人も嫌な奴らばかりで誰が死のうがサスペンスを感じることができません。以上のように、読み物としては難のある作品ですが、一方で、犯人当てのパズル小説としては超一級品です。驚愕の大トリックなどはないものの、小さなトリックをそこらかしこに散りばめて真相を覆い隠すテクニックが冴えまくっています。張り巡らせた伏線の回収も巧みですし、何よりもトランプ、ペンナイフ、意味ありげなメモといった小道具の使い方の巧さには見事だという他ありません。真相が判明したあとに再読してみると、どれだけ巧緻なプロットが組み上げられていたかが分かるはずです。ある意味、館ものパズラーの到達点だといえる、名作中の名作です。
りら荘事件 (創元推理文庫)
鮎川 哲也
東京創元社
2006-05-27


憎悪の化石(1959年)
熱海の旅館で男の他殺死体が発見される。被害者の名は湯田真壁といい、大阪の興信所で調査員として働いていたことが判明する。しかも、捜査を続ける内に、自分の掴んだ情報をネタにして複数の人間に恐喝を行っていたことがわかってきたのだ。警察は脅迫されていた相手を調べ上げ、その中から容疑者を12人に絞る。ところが、彼らには全員鉄壁のアリバイが存在していた。捜査は完全に座礁に乗り上げたかのように思えたが......。
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デビュー当時に不遇な作家生活送った鮎川哲也は『黒いトランク』を発表したのちに今までの遅れを取り戻すべく、次々と傑作を発表していきます。本作もその一つです。作者が得意とするアリバイ崩しものですが、最初から犯人を特定するのではなく、複数の容疑者のアリバイを丹念に調べ上げるプロセスはかなり読み応えがあります。そのうえ、容疑者を一人に絞り込み、アリバイを崩したあとにもうひとヒネリを加えるというサービスぶりです。ただ、本作にはメイントリックとサブトリックの2つがあるのですが、サブトリックの独創性の高さにたいして、メイントリックがやや安易で短篇ミステリーを支える程度のものとなっています。これはメインとサブを入れ替えた方が良かったのではないでしょうか。そのバランスの悪さのため、本作は著者の他の代表作と比べるとやや評価を落としている感があります。


白の恐怖(1959年)
軽井沢の別荘には大富豪の遺産を相続するために4人の男女が集まっていた。相続手続きは大富豪の未亡人が行う予定であったが、外は吹雪で一歩も外に出ることができない。しかも、外部とは連絡すら取れない陸の孤島と化していた。そこで惨劇が発生する。一人、また一人と姿なき殺人者によって相続人たちが血祭りにあげられていく。一体、犯人は誰なのか?
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星影竜三シリーズの第2弾は典型的なクローズドサークルものです。前作の『りら荘事件』は素晴らしいパズラー小説である反面、なぜ関係者は連続殺人犯の徘徊しているりら荘から逃げなかったのかという問題点がありました。それに対して、本作では舞台を完全なクローズドサークルにすることでその問題は改善されています。しかし、一方で、ミステリーとしてはいかにも薄味です。6人の登場人物が次々と死んでいくので犯人は簡単に見当がついてしまいます。かといって、『りら荘事件』のような緻密なプロットの妙といったものも皆無です。その上、探偵役の星影竜三も最後に登場して事件を解決するものの、ろくにしゃべろうともしません。ほとんどの説明を警視庁の警部に丸投げしているといった有様です。担当の編集者が「うちの会社が弱小だから手を抜かれた」と言ったというエピソードが残されていますが、この時期に発表された他の鮎川作品が傑作揃いだっただけに、そう思う気持ちはよく理解できます。実際、短い作品でテンポよく物語が進むため、古き良き時代の探偵小説の味わいはそれなりに楽しめるものの、それ以上にほめるべき点が見当たらない代物なのです。鮎川哲也自身も本作の出来栄えには納得がいってなかったようで、最初の単行本が絶版になったあとは再販や文庫化の許可を出さず、バージョンアップ版の執筆に取り組んでいました。『白樺荘事件』と改題し、探偵役も星影竜三から第三の探偵である三番館のバーテンに変更するといった具合に、ほとんど一から書き直すといった気合いの入れようです。しかし、それが完成するより先に鮎川哲也は亡くなってしまいます。結局、残されたのは第一の殺人が起こったところまでの原稿であり、一体、犯人は本作と同じなのか、それとも新しい犯人を用意していたのかといった部分は謎のままです。ちなみに、『白の恐怖』は長い間絶版になっていましたが、作者の死後、光文社や論創社から復刊されています。特に論創社の『鮎川哲也探偵小説選』は少々値は張りますが、本作と一緒に問題の『白樺荘事件』の執筆部分も収録されているのでおすすめです。
白の恐怖 (光文社文庫)
鮎川 哲也
光文社
2018-08-08


黒い白鳥(1959年)
線路沿いで男の銃殺死体が発見される。被害者は紡績会社のワンマン社長であり、経営者サイドと対立をしていた労働組合の委員長や副委員長に疑いの目が向けられるが、彼らにはいずれも鉄壁のアリバイがあった。次に、金銭でつながる新興宗教がらみの容疑者が浮上するものの、何者かに殺害されてしまう。捜査が難航する中、鬼貫警部は捜査記録を丹念に読み返し、ある手掛かりに着目、京都・大阪・九州と執念の捜査を続けていくが......。
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名作と名高い『黒いトランク』と双璧を成すアリバイ崩しものですが、『黒いトランク』が少々複雑でマニア向けの作品だったのに対し、本作はミステリーとしての仕掛けが単純明快で分かりやすいという特徴があります。時刻表を利用したアリバイトリックとしては白眉といえる作品であり、地道に足を使って真相に迫っていく面白さをたっぷりと堪能することができます。物語の構成としては前半で複数の容疑者を登場させることでフーダニットの興味を抱かせて後半で容疑者を一人に絞ってアリバイを崩していくという展開なのですが、前半の労働争議や新興宗教の話は少々冗長で退屈だと思うかもしれません。その代わり、鬼貫警部が登場してからの畳みかける展開は見事ですし、メイントリックの他にサブトリックを巧みに組み合わせて謎を容易に解かせないところが秀逸です。アリバイトリックだけを取り出してみると大したことはないと思うかもしれませんが、その扱いのうまさが本作を傑作たらしめているのです。


人それを情死と呼ぶ(1961年)
箱根山中で男女の白骨死体が発見される。その内、男性の名は河辺遼吉と判明。とある建設会社の販売部長であり、建設省の収賄事件の鍵を握る人物だった。2人は共に毒をあおって死んでおり、状況から心中事件だと考えられた。だが、
遼吉の妻はその結論に納得ができない。夫との仲は良好で浮気しているような様子はなく、心中の相手とされる女にも全く覚えがなかったからだ。彼女は遼吉の妹と共に真相を探るため、独自に事件を調べ始めるが.....。
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本作は鮎川作品の中では少々異色であり、鬼貫警部シリーズでありながら鬼貫がほとんど出てきません。一応登場してアリバイを崩したりもするものの、この作品の主眼は他にあります。一見、心中としか思えない事件の真の構図が徐々に浮かび上がってくるところに本作の妙味があるのです。アリバイ崩しでもフーダニットでもなく、”何が起こったのか?”という謎の面白さを追求した作品だといえます。その異色性のために、かつては他の傑作群に隠れがちでしたが、現在ではプロットの巧妙さが評価され、著者の代表作の一つに数えられています。また、本作は松本清張の『点と線』を意識した作品だともいわれているだけに、両者を読み比べてみるのも一興でしょう。
翳ある墓標(1962年
週刊誌に取材記事を売り込むことを生業としているトップ屋集団”メトロ取材グループ”の杉田兼助は同僚の高森映子と共に銀座のキャバレーを取材する。しかし、取材に協力してくれた映子の友人であるホステスが死体となって発見された。自殺という警察の判断に納得のいかない映子は独自に調査を行うが、彼女も何者かに殺害される。映子の残したダイイングメッセージを手がかりにして、
兼助は事件の真相を追うが.....。
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鮎川哲也としては珍しいノンシリーズ作品であり、極めてマイナーな存在です。相当なミステリー好きでも聞いたことがないという人は多いのではないでしょうか。ミステリーとしても地味で社会派推理を意識した物語には古臭さを感じますが、ダイイングメッセージやアリバイ崩しを基軸としてロジカルな展開を楽しめるのはさすがです。傑作とまではいかないものの、隠れた佳作とはいえる作品です。
翳ある墓標 (光文社文庫)
鮎川 哲也
光文社
2015-02-10


砂の城(1963年)
鳥取砂丘から突き出ている足。最初はマネキン人形かと思われたが、それは女性の絞殺死体だった。捜査の結果、過去に被害者の女性と交際していた画家が容疑者として浮かび上がる。だが、彼には鉄壁のアリバイがあった。容疑者が犯行時刻に現場にたどり着くには急行出雲に乗るしかないのだが、出雲が走っている時間に容疑者は他の列車に乗っており、出雲に乗り換えることは不可能である事実が確認されたのだ。難攻不落のアリバイに捜査は行き詰まり、捜査班は
鬼貫警部の手を借りることになるが......。
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時刻表を利用したアリバイトリックがあり、後半に登場する鬼貫警部がそのアリバイを崩していくというシリーズの黄金パターンを忠実になぞった作品です。それだけに新鮮味はありませんが、考え抜かれた緻密なプロットはやはり一級品です。絡まった糸を一つ一つ解きほぐしながら真実に近づいていくプロセスは著者の作品ならではの面白さに満ちてます。旅の情緒性も巧みに取り入れられており、時刻表ミステリーの教科書とでもいうべき傑作に仕上がっています。


偽りの墳墓(1963年)
浜名湖の温泉街で首吊り死体が発見される。死んでいたのは土産物屋の女将、山野いくだった。夫である山野捨松の話によると、愛人の家から朝帰りをしたところで死体を発見したのだという。司法解剖の結果、自殺に偽装した殺人であることが明らかになる。当然、夫の捨松が疑われるが、彼と彼の愛人にはアリバイがあった。犯行時刻には愛人宅の近所で家人と一緒にテレビを見ていたのだ。結局、他にこれといった容疑者も浮かび上がらず、捜査は暗礁に乗り上げる。しかし、しばらくして、今度は寺の竈から女の死体が発見された。果たして、2つの事件の繋がりとは?
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謎が次々と出てきて2転3転する展開が面白く、非常に読み応えのある作品です。得意のアリバイ崩しものではあるのですが、それだけでは終わらず、ヒネリのあるロジックをいくつも用意しているところが秀逸です。本作も本格ミステリとしてかなりレベルの高い作品だといえるでしょう。ただ、この作品はもともと短篇だった小説を長編にリライトしたものです。鮎川作品はこういったパターンが多いのですが(有名なところでは
中編ミステリーの『呪縛再現』をベースに『りら荘事』を書き上げたりとか)、その中でも本作は水増し感が半端ありません。わずか原稿用紙70枚の短編を450枚の長編に膨れ上がらせているのです。もちろん、その分、色々なアイディアを付け足してはいるものの、その結果、どうしてもつぎはぎ感の目立つ作品になっています。特に、アリバイの種明かしの大部分を犯人の自白によって語らせるのは少々肩透かしではあります。とはいえ、魅力的な要素が多々ある作品であることは確かなので、本格ミステリー好きであれば読んで損をするということはないでしょう。
偽りの墳墓 (光文社文庫)
鮎川 哲也
光文社
2002-12-10


死者を笞打て(1965年)
ミステリー作家の鮎川哲也はある日、評論家から自作の『
死者を笞打て』が石本峯子という女流作家が十数年前に発表した作品の盗作だと指摘される。全く身に覚えのないことだが、そのせいで世間から非難を浴び、仕事が途絶えてしまう。身の潔白を証明するために鮎川哲也は石本峯子を探し出そうとするが.......。
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作者自身が主人公を務めるという、鮎川作品の中でも最大の異色作です。また、星新一、佐野洋、仁木悦子、笹沢左保etcといった当時の人気作家をモデルとした人物が大挙して登場するのも本好きの人にとっては楽しい趣向だといえます。ただ、ミステリーとしては特にこれといった工夫もなく、極めて凡庸です。そのため、元ネタになった作家のことを知らなければ何が面白いのか分からない作品になっています。あくまでも、当時のミステリー界のゴシップネタなどを楽しむ、ファン向けの作品です。
死者を笞打て (光文社文庫)
鮎川 哲也
光文社
2019-09-11


死のある風景(1965年)
石山家の長女である真佐子が突如失踪する。家族は警察に失踪届を出すものの、その行方はようとして知れなかった。2週間後、阿蘇山で投身自殺だと思われる若い女性の死体が発見されたとの連絡が入る。妹の美知子が阿蘇に向かうと、果たしてその死体は姉のものだった。それから半年が過ぎたころ、金沢の郊外で春日千鶴子という若い女性の銃殺死体が発見された。容疑者として2人の人間が捜査線上に浮上するが、2人ともアリバイが成立する。さらに2カ月後、今度は西多摩にある貯水池に男の死体が浮かび上がる。しかも、死んだ男はトップ屋であり、デスクの上には石山真佐子の自殺に関する記事の切り抜きが残されていたのだ。果たして一連の事件の関連性は?
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本作は鬼貫警部シリーズの一作ですが、
鬼貫が登場するのは一章のみです。しかも、真相の解説は他の登場人物の手によって行われるため、シリーズのファンにとっては物足りないと感じるかもしれません。しかし、一方で、序盤で提示される魅力的な謎、立ちふさがる強固なアリバイ、複数のトリックが絡み合って効果を高める巧妙なミスディレクション、意外な手がかりからひも解かれる鮮やかな推理といった具合に、本格ミステリとしての魅力がこれでもかというほどに詰め込まれています。3つの事件がそれぞれどう絡んでくるかといったプロットの妙も加わり、かなりレベルの高い作品に仕上がっています。間違いなく、鮎川哲也の代表作の一つといえる傑作です。宛先不明(1965年)
秋田市内の公園で男の絞殺死体が発見された。被害者は観光旅行に来ていた印刷会社の営業部員・伊吹勝男だと判明する。他の社員の話によると、勝男は朝食の時に何者かに電話で呼び出され、別行動を取っていたという。捜査の結果、勝男と秋田駅で会っていた男を突き止めるが、彼は意外なアリバイを提示し、自分は被害者が殺された時間には東京にいたと主張する。
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本作は出版社のアンソロジー企画”産業推理小説シリーズ”の第一弾です。いかにも社会派推理小説全盛の時代らしい企画であり、鮎川作品としては珍しく社内の派閥争いや機密情報の漏えい問題などがメインストーリーとして取り入れられています。しかし、あくまでも主題となるのはアリバイ崩しです。しかも、いつもの時刻表トリックではなく、郵便を利用したアリバイを用いているのがユニークです。確かに、他の代表作と比べると小粒感があって少々物足りなさがあるのはいなめません。それでも、後半に鬼貫が現れてから行われるアリバイ崩しの緻密さはさすがの面白さです。ただ、電子メールが当たり前になった現代では本作に使用された郵便トリックがピンとこないという人も多いのではないでしょうか。


準急ながら(1966年)
愛知県犬山市で土産物屋を営んでいる鈴木武造は刑部と名乗る男に連れ出され、そのまま戻ってこなかった。そして、翌朝、彼の死体が木根川を越えた岐阜県側で発見される。手掛かりは皆無であり、たちまち捜査は行き詰まるが、武造の妻から驚くべき情報がもたらされる。なんと、
鈴木武造は青森で生存しているというのだ。つまり、死体となって発見された武造は彼になり済まして土産屋を営んでいた偽者だったということになる。改めて捜査を行ったところ、偽者の武造は海里昭子という女性から手紙を受け取っていたことが判明する。だが、その女性もすでに毒殺されたあとだった。やがて、2人は兄と妹の関係だったことが分かり、有力な容疑者も浮上する。警察の調べに対し、その人物は東京駅の構内で撮影したと思われる自分の姿と準急ながらが映った写真を見せ、アリバイを主張するが.......。
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本作も典型的なアリバイ崩しものですが、メイントリックのネタだけ聞くとあまりの単純さに拍子抜けするかもしれません。しかし、本作は真相を見破るまでの過程で仮説を立てては破棄するというトライアンドエラーを繰り返し、一種の多重解決もののような趣向になっています。それが結構楽しかったりするのです。地味でボリュームも少なく、決して飛び抜けた傑作というわけではありませんが、推理小説を読んでいるという満足感はそれなりに得られる佳品です。


積木の塔(1966年)
レコード会社の中年セールスマンが喫茶店で毒殺される。コーヒーに青酸カリが混入されていたのだ。稲村と名乗る女性が一緒だったことが判明し、その女性の行方を追った警察は彼女の本名が長谷鶴子であることを突き止める。だが、鶴子も広島県山陽線の線路沿いで絞殺死体となって発見された。やがて、有力な容疑者が浮かび上がるが、その容疑者にはアリバイがあり.......。
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お決まりの鉄道を利用したアリバイ崩しもので、トリックも一つ一つはそれほど凝ったものではありません。しかし、トリックは単一ではなく、幾重にも仕掛けられており、その上、小道具を巧みに使って単純なトリックを補強していく手管が見事です。また、アリバイ崩しだけではなく、動機を巡る推理もなかなか興味深く、一種のホワイダニットものとして楽しむこともできます。小品ながらもなかなかの佳作です。


鍵孔のない扉(1969年)
桜荘というアパートで放送作家の男性が殺害される。彼の名は雨宮といい、声楽家である鈴木久美子の不倫相手と目されていた男だ。ピアニストである夫の鈴木重之は雨宮を許せず、過去に泥酔して怒鳴りこんだりもしていたという。当然、夫の犯行が疑われたが、彼にはアリバイがあった。捜査が暗礁に乗り上げる中、意外な事実が判明する。実は、久美子の不倫相手は雨宮ではなく、コメディアンの朝吹正彦だったのだ。やがて、朝吹の殺害を予告する脅迫電話がかかってくるが......。
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例の如く犯人は中盤で判明し、そこからアリバイ崩しが始まるわけですが、本作の場合は犯人の仕掛けたトリックの巧緻さが目を引きます。特に、アリバイと密室を同時に用意し、それぞれを絡み合わせることで謎を深めていく手管が見事です。一方、そのトリックをシデ虫や2種類の靴などの意外な手掛かりを元に徐々に解き明かしていくプロセスにも巧さを感じます。実に完成度が高く、推理小説の醍醐味を味わえる、中期を代表する傑作です。ただ、密室トリック自体は大したことはないので、そこに期待すると肩透かしを食らうかもしれません。


風の証言(1971年)
井の頭公園に隣接する植物園で男女が殺害される。男は音響技師で女はバレエダンサーだった。検死解剖の結果、男は砂を詰めたストッキングで撲殺され、女は撲殺された後に首を絞められていたことが判明する。一連の状況から、犯人はまず、男を殺害し、通りすがりの女が犯行を目撃したために口封じで殺したのだと推測された。やがて、有力な容疑者が浮かび上がるが、その男はアリバイを主張する。
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本作では2つのアリバイトリックが登場しますが、メインとなるのは後半に登場する写真のアリバイです。写真を利用したアリバイトリックというものは、どうしてもこじんまりとしたものになりがちで、時刻表ミステリーのように旅情気分も味わえないという難点があります。実際、本作も地味、小品というイメージはぬぐえません。しかし、それでも、一枚の写真を巡ってあれやこれやと推理を巡らすプロセスは楽しく、推理小説の醍醐味をそれなりに味わうことができます。それに、最後の最後でタイトルの意味が判明する構成も気が効いています。過度の期待さえしなければ十分に及第点以上といえる作品です。
風の証言 (創元推理文庫)
鮎川 哲也
東京創元社
2003-03-22


戌神は何を見たか(1976年)
東京都稲城市のクヌギ林で男の刺殺死体が発見される。被害者は関西在住のカメラマンだったが、妻の話によると仕事と称して月に2回は上京していたという。手掛かりは被害者の口に残っていた瓦煎餅のかけらと人の顔が彫られた金のレリーフ。捜査の結果、瓦煎餅は三重県の名張市で売られているものであり、奈良県の県境にある神社から犯行の痕跡も発見される。ここにきて、三重県の神社で殺したのちに死体を東京まで運んだ可能性が濃厚となり、犯行の日にその神社に訪れていた坂下というカメラマンが逮捕されるが.....。
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捜査のために日本列島を縦断するさまが描かれ、旅情豊かなミステリーを楽しめるという鮎川作品の特徴がより色濃く出た作品です。各地の名所が紹介され、ゆったりとした気分で読書に浸ることができます。ただ、純粋にミステリーを楽しみたいという人にとってはいささか冗長に感じるかもしれません。その辺りは意見の分かれるところです。一方、ミステリーの中身としては精緻なアリバイ工作が光ります。小道具を巧みに使い、うまい具合に捜査陣と読者を錯誤の罠にはめています。しかも、アリバイだけでなく殺人動機の錯誤によって捜査を混乱させる手管が見事です。全体にテンポの悪さは目立ちますが、作中にミステリー論めいたものも織り込み、なかなか読み応えのある作品に仕上がっています。


朱の絶筆(1979年)
あらゆるジャンルをこなす売れっ子作家の篠崎豪輔は出版社にとってはありがたい存在だったが、不遜な態度が目立ち、同業者からは忌み嫌われていた。その豪輔が軽井沢にある山荘の空き部屋を作家やジャーナリストに提供し始め、しかも、ごちそうが無料でふるまわれるようになる。そのサービスは編集者や写真家、イラストレーターたちには好評だったが、彼を嫌っている同業の作家たちは別荘に寄りつこうともしなかった。そんな夏のある日、豪輔が山荘で殺される。しかも、その日山荘に滞在していた客たちは全員豪輔に恨みを持っていたのだ。死体が発見された書斎の机の上には加筆訂正中の原稿が残されていた。警察はその作業の進行具合から犯行時刻を推測するが......。
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実に20年ぶりの星影竜三シリーズです。これに関しては、鬼貫警部のアリバイ崩しものが当時の若者の支持を得られていないことを気にかけ、名探偵が登場するクラシカルな探偵小説に改めて挑戦したというエピソードが残されています。さて、そんな本作ですが4つの殺人に4つのトリックが用意されているという豪華な作りになっています。しかも、読者への挑戦付きです。古典的な探偵小説が好きな人にとってはたまらない趣向だといえるでしょう。とはいえ、トリックの中には安易なものも含まれており、犯人も見当がつきやすいという欠点はあります。しかし、メイントリックはよく考えられていますし、伏線の妙や小道具の使い方のうまさはさすがで、名作『りら荘事件』を彷彿とさせるものがあります。70年代以降の後期作品の中では間違いなく頭一つ抜きん出た存在だといえるでしょう。ただ、相変わらず探偵役である星影竜三の出番が極端に少ない点は賛否の分かれるところです。


沈黙の函(1979年)
原宿で中古レコード店を営んでいる落水周吉は青森に買い付けに行った折、函館の製菓会社の副社長が大量のSPレコードを売りたがっているという話を持ち込まれる。そこで、函館に渡って話をまとめ、買取資金と梱包材を準備するために一度東京に戻った。そして、引き取りのために再び函館に向かった周吉だったが、そのまま行方不明になってしまう。函館に現れて、レコードは引き取ったというのだが、その後の足取りがつかめないのだ。やがて、送られてきたレコードが届いたと上野駅から連絡が入り、周吉の共同経営者である茨木とアルバイトが荷物を取りにいく。ところが、開封をしてみると、中から周吉の生首が.......。
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鮎川哲也はレコードマニアであり、実際に相当な数のレコードを所持していました。本作はその趣味を存分に生かした作品であり、物語の随所にレコードに関する蘊蓄が挿入されています。レコードマニアの人ならなかなか楽しめる内容になっているのではないでしょうか。一方、ミステリーとしては珍しくアリバイが絡まず、生首をいかにして荷物に紛れ込ませたのかという、一種の不可能犯罪ものになっています。しかし、この謎が今一つパットしません。トリック自体が極めて単純なものであり、その使い方もトリックのためのトリックといった感がいなめないのです。鮎川作品ならではの謎に対する重層的なアプローチといったものにも欠けています。ミステリーとして特に見るべき点はなく、鮎川作品の中では下位の部類に属する凡作です。


王を探せ(1981年)
亀取二郎は評論家の木牟田盛隆に弱みを握られ、恐喝されていた。最初は素直に金を払っていたものの、やがて殺意が芽生え始め、アリバイ工作をしたうえで
盛隆を殺してしまう。捜査を始めた警察は盛隆が残したメモから亀取二郎が犯人である可能性が極めて高いと判断する。ところが、東京には40人もの亀取二郎が存在していたのだ。警察は明らかに犯人ではないものを除外し、容疑者を4人に絞り込むが、彼らはいずれも鉄壁のアリバイが存在していた。果たして犯人は?
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犯人の名前が分かっているのに真犯人が分からないという、ユニークな趣向の作品です。しかも、途中で5人目の
亀取二郎が登場するなど、プロットにも工夫が見られます。全盛期の作品と比べると、いろいろと雑な部分が目立つのは残念ですが、その代わりに、軽妙な語り口を楽しむことができます。気軽に鮎川作品に触れたいという人にとっては最適なサンプルだといえるのではないでしょうか。


死びとの座(1983年)
東京中野区にある中野セントラルパーク。そこのベンチの一つは街灯の明かりの加減で座っている人がまるで死人のように見えるため、”死びとの座”と呼ばれていた。そのベンチで芸能人のミッキー中野が銃殺される。容疑者として浮上したのはミッキー中野の元恋人と妹をミッキー中野に弄ばれたと主張する男の2人だったが、いずれもアリバイが成立する。だが、男のアリバイが偽装工作だという事実が明らかになり.......。
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鮎川哲也が64歳のときに発表した生涯最後の長編ミステリーです。一応、鬼貫警部シリーズではあるのですが、探偵役は主に素人2人が務め、鬼貫はそのサポート役に過ぎません。したがって、鬼貫の活躍を期待すると肩すかしをくらってしまいます。また、鮎川作品としては珍しい週刊誌連載であったためか、場面がコロコロ変わり、物語の全体像が把握しずらいのも難点です。肝心のアリバイトリックもちょっと無理があります。作家の晩年の作品というものは大抵そうなのですが、やはり本作もやや残念な出来になっています。


その後
多くの傑作を残した鮎川哲也は80年代後半には半ば筆を折り、新本格ブームが起こってからは後進の育成に力を入れていきます。1988年に〝鮎川哲也と十三の謎”シリーズを刊行して若手作家に作品発表の場を与え、さらに、1990年になると史上初めての本格ミステリを対象とした公募新人賞・鮎川哲也賞を設立しました。そして、本格ミステリへの多大な貢献が評価され、2001年に第1回本格ミステリ大賞特別賞が贈られることになります。しかし、残念ながら、その翌年には執筆に意欲を見せていた『白樺荘事件』を完成させることなく死去してしまいます。享年83でした。


鮎川哲也全作品