最新更新日2020/02/20☆☆☆

ロス・マクドナルドは1915年生まれで本名をケネス・ミラーといいます。サスペンスミステリーの三大女王の一人であるマーガレット・ミラーの夫にして自らもハードボイルド御三家の一人に数えられている巨匠です。ちなみに、御三家の残り2人、ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーと異なるのは、独特の陰鬱な雰囲気と複雑なプロットからなる謎解きの要素が強く見られる点です。そのため、本格ミステリ好きの間でもロス・マクロナルドの作品を好む人は少なくありません。そんな彼の作品群の中でもロス・マクロナルドの代名詞というべき、リュウ・アーチャーシリーズを紹介していきます。

動く標的(1949)
ロサンゼルスの私立探偵、リュウ・アーチャーはテキサスの石油王の後妻であるエイレン・サンプソンから夫の捜索を依頼される。夫はロサンゼルスの空港で姿を消し、そのまま行方不明になってしまったというのだ。調査を開始したアーチャーは石油王、ラルフ・サンプソンの失踪には犯罪組織が絡んでいるのではないかと推測する。やがて、10万ドルを送るようにと、ラルフ・サンプソンの筆跡で書かれた手紙が届く。身代金目的の誘拐だということは明らかだ。しかし、金を払ったからといって人質が帰ってくるという保証はない。アーチャーは手掛かりを得るために、複雑に絡み合う事件の渦中に身を投じていくが......。
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1944年に『暗いトンネル』でデビューしたロス・マクドナルドはしばらくの間、本名であるケネス・ミラーの名で作品を発表していました。作品のジャンルもハードボイルド一筋ではなく、スパイ小説、通俗スリラー、サスペンスといった具合に、試行錯誤の跡がみられます。そして、ようやく自分なりのスタイルを打ち立てるきっかけとなったのが、リュウ・アーチャーシリーズ第1弾である本作です。とはいえ、全盛期の作品群と比べると、まだまだ未成熟な印象を受けます。まず、冷徹で孤高なイメージがあるリュウ・アーチャーですが、この第1作ではかなり饒舌でうかつな言動が目立ちます。未だキャラが定まっておらず、中期以降の作品に登場する彼と比べてみるとまるで別人のようです。ストーリーも平板で後期作品のような複雑なプロットを期待すると肩透かしを食らうでしょう。ただ、ハメットの亜流ながらもバイオレンスメインの展開はそれなりに楽しく読むことができますし、終盤には作者らしいヒネリも用意されています。しかし、まだまだ習作という印象は拭えず、ロス・マクドナルドならではの面白さを確立するには至っていません。
動く標的【新訳版】 (創元推理文庫)
ロス・マクドナルド
東京創元社
2018-03-22


魔のプール(1950)
アーチャーの事務所を訪ねてきた女性はモード・スリカムという名で、不倫をネタにした脅迫状に悩まされているという。そして、アーチャーに脅迫者の正体を暴いてほしいというのだが、詳しい事情はなかなか語ろうとはしなかった。そんな彼女を説得し、スリカム家に乗り込むアーチャーだったが、そこには一癖も二癖もある人物が揃っていた。家の実権を握る姑のオリヴィア、モードの夫で変人劇作家のジェイムズ、反抗期の娘キャシー、スリカム家の元運転手で女たらしのパットなどなど。そして、ついに事件が起きる。しかも、そこに浮かび上がってきたのは単なる不倫騒動では収まらない巨大な陰謀だった。
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シリーズ2作目ですが、中期以降の重厚な作風にはほど遠く、通俗ハードボイルドのような派手な展開が続きます。アクションシーンが満載で小説よりも映画にしたほうが面白いんじゃないかとすら思ってしまいます(実際、1975年にポール・ニューマン主演で『新・動く標的(原題:The Drowning pool)』のタイトルで映画化されていますが)。アーチャーも警察署長と殴り合いをするなど、後期のイメージからはちょっと信じがたいほどの青臭さです。一方で、家庭の悲劇といったロス・マクドナルドならではのテーマも垣間見られるのですが、それが通俗ハードボイルドな雰囲気と見事に噛み合っていません。終盤には意外な展開もあったりするものの、あまり驚けないのはそうしたちぐはぐさのせいではないでしょうか。原石の輝きを感じさせながらも、未だ発展途上の凡作といったところです。
魔のプール (創元推理文庫 132-5)
ロス・マクドナルド
東京創元社
1967-05-26


人の死に行く道(1951)
サミュエル・ローレンス婦人の依頼は失踪した娘のギャリィを探してほしいというものだった。看護士のギャリィは病院に担ぎ込まれたギャングのスピードを看護していたのだが、その仲間のジョオと一緒に姿を消したというのだ。2人の行方を追うアーチャーは、やがてギャングのボスも彼らを探していることを知る。ジョオがボスを怒らせたのが原因だというのだが.........。
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事件にギャングが絡み、激しいアクションシーンが盛り込まれている点はいかにも初期型という感じです。しかし、前2作と比べるとプロットに深みが増し、作家としての成長が感じられます。中盤の展開はかなり錯綜していて混乱しそうになりますが、そこから終盤に向け、ジグソーパズルのピースをあるべき場所に当てはめていくように、きれいに収束していくのが見事です。真相の意外性もなかなかのもので、ハードボイルドとしてもミステリーとしても完成度が大きくアップしています。後期のような重厚な作風を期待するとがっかりしますが、単体で評価するならば十分読み応えのある力作だといえます。


象牙色の嘲笑(1952)
アーチャーはある女から黒人女性であるメイドの行方を捜すように依頼され、あっさりと彼女を見つける。だが、それからすぐに彼女は喉を切り裂かれて殺されてしまう。現場には富豪の一人息子が失踪したことが書かれた記事の切り抜きが残されていた。2つの事件は一体どう結び付くのか?真相を求めてアーチャーが動き出す。
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作者が円熟期に入る前の作品でシリーズ探偵のアーチャーもまだまだ若々しく、物語もスピーディーに進みます。一方で、後期を思わせる雰囲気も見え隠れし、謎が謎を呼ぶ展開はかなりの読み応えです。ただ、伏線があからさまなのでミステリーを読み慣れた人なら犯人の見当はつきやすいでしょう。もっとも、本作のポイントはそこではなく、最後に犯人の口から語られる衝撃的な告白です。人間の暗い情念があからさまになるその内容には戦慄を覚え、名作『さむけ』を彷彿とさせるものがあります。また、本作には新本格ミステリ作家もびっくりのトリックが使われており、それが成功しているかどうかは別にしても、本格ミステリファンにとっては興味深いものになっています。


犠牲者は誰だ(1954)
車を走らせていたアーチャーは道端で倒れている血まみれの男を発見する。とりあえず、近くのモーテルに運び込み、病院に連絡をしたものの、男はまもなく息を引き取ってしまう。死んだ男はトニィ・アクィスタという名のトラックの運転手で、数万ドルもする酒を運送中に何者かに銃で撃たれ、道端に放り出されたということらしい。しかも、酒はトラックごと消え失せていた。トニィの雇い主からトラックと積み荷を探す依頼を受け、アーチャーは調査を始めるが、やがて意外な事実が浮かび上がってくる。トニィは以前、勤務先の社長令嬢であるアンにつきまとっていたのだが、そのアンが現在失踪中だというのだ.......。
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前作の『象牙色の嘲笑』を経ていよいよ本領発揮かと思われたアーチャーシリーズですが、本作では再び犯罪組織と銃撃戦を繰り広げるような通俗ハードボイルドに逆戻りしています。アーチャーも殴り合ったり、饒舌だったりでまだまだ若いといった印象です。とはいうものの、最初期の作品と比べると陰鬱な雰囲気が立ち込め、物語の陰影も濃くなっているなど、確実に変化が見て取れます。また、入り組んだプロットを解きほぐしながら、真相を浮かび上がらせていく手管も見事であり、ミステリーとしてもなかなかの充実度です。気分が暗く沈み込むようなラストも印象的で、初期と後期の橋渡し的な佳品というのが妥当な評価ではないでしょうか。


わが名はアーチャー(1955)
戦争が終わり、復員したばかりのアーチャーの元に失踪した娘のユーナを探してほしいという母親からの依頼が舞い込む。依頼主は娘が海で溺れた可能性を示唆し、果たしてユーナの遺体は海に潜った彼女の夫によって発見される。だが、アーチャーはまるで遺体のある場所を最初から知っていたかのような夫の行動を不審に思い......。
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シリーズ初期の作品を中心に構成された全7編の短編集です。まだ著者が本領を発揮する前の作品だけに、単純なプロットのごく普通のハードボイルド作品が多いのですが、中期以降を思わせる意外性と悲劇性を伴った作品もいくつかあります。その中でも、特に印象的なのが1946年発表の『女を探せ』です。この作品は第1回EQMM短編コンテスト入選作品であり、リュウ・アーチャーの初登場作でもあります(もっとも、この短編集に収録されるまで主人公はアーチャーではなく、別の名前になっていましたが)。応募先を意識してかハウダニットやホワイダニットに工夫を凝らした作風となっており、本格ミステリファンにもおすすめしやすい佳品です。他にも、法廷で事件の裁判を傍聴してほしいという奇妙な依頼から始まる『雲をつかむような女』や美術界を舞台に繰り広げられる『ひげのある女』などもトリッキーな展開を楽しめる作品に仕上がっています。


凶悪の浜(1956)
カリフォルニア州にある高級スイミングクラブに呼び出されたアーチャーは、その支配人であるバセットから彼がいま巻き込まれているトラブルの話を聞かされる。かつてこのクラブにはへスターという女性が勤めていたのだが、ある日突然行方不明になってしまう。しかも、彼女の夫のジョージは妻の失踪にバセットが関わっていると思い込み、さかんに脅迫電話をかけてくるというのだ。そのとき、ジョージがクラブに押し入り、ひと悶着起きる。その場は、アーチャーがジョージのためにへスターを探し、調査費用はバセットが持つということで収めたものの、この一件は単なる失踪事件ではないことが次第に明らかになってくる。2年前にクラブで起きた殺人事件との関連が濃厚になり、そして、新たな殺人が.........。
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シリーズ中最も評判の悪い作品の一つです。とにかくプロットに厚みというものがなく、物語もハードボイルドのステレオタイプをなぞっているだけで面白みがありません。事件の手掛かりも向こうから勝手に転がりこんでくるといった感じでご都合主義が目立ちます。そのうえ、登場人物も類型的過ぎて魅力が皆無です。はっきりいって、習作の感が強かった『動く標的』や『魔のプール』あたりのほうが遥かに楽しめます。強いて褒める点を挙げるとすれば、ストーリーがシンプルな分、テンポがよくて読みやすいといったことぐらいでしょうか。くれぐれも、この作品を最初に手に取り、「ロス・マクドナルドってつまらない」などと思わないようにしましょう。
兇悪の浜 (創元推理文庫 132-6)
ロス・マクドナルド
東京創元社
1959-05-05


運命(1958)
アーチャーは夜明け前に叩き起こされる。ドアを開けるとそこにひどく怯えた様子の青年が立っていた。カールと名乗る青年は精神病院から脱走してきたといい、すべては兄や医者の陰謀だと訴える。さらには最近亡くなった上院議員の父の死についても疑惑があるというのだ。アーチャーは彼の訴えに心を動かされながらもひとまず病院に戻るように説得する。そして、車で病院まで送ることになったのだが、その途中でカールに襲いかかられ、車と拳銃を奪われてしまう.......。
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作者がシリーズのスタンスを大きく変化させるきっかけとなった作品です。ご都合主義的なアクションシーンやアーチャーの青臭さが時折垣間見られるなど初期の雰囲気を残しつつも、心理小説的な面が強調され、アーチャー自身の過去の罪を絡めながら内省的な作風に大きく舵を切っています。同時に、その後、定番となっていく家庭の悲劇が初めてメインテーマとして取り上げられている点も特筆に値します。精神的に病んでいる家族の個性と個性がぶつかりあって、陰鬱なラストへと流れ込むさまはなかなか衝撃的です。とはいうものの、その後に書かれた代表作群と比較すると、完成度はもう一歩及ばないといった感があります。中盤の展開がごたついていますし、真相の意外性も皆無です。その代わり、娘の非行問題に悩み、自身も神経症を患いながら書いたという物語は鬼気迫るものがあります。プロットの甘さを補って余りある力作です。
運命 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ 427)
ロス・マクドナルド
早川書房
1986-01-01


ギャルトン事件(1959)
アーチャーはギャルトン家の顧問弁護士であるセイブルに呼び出され、ギャルトン家の未亡人であるマリアの息子を探してほしいといわれる。息子のアンサニィは家柄が不釣り合いな女性と結婚したため、20年前に家を追い出され、そのまま行方知れずになったというのだ。現在、マリアは重い病を患っており、命が尽きる前に息子と再会してすべてを許したいのだという。アーチャーは調査を開始するが、その直後にセイブルの下男が殺害される。それを聞いたアーチャーは現場に向かおうとしたものの、途中で何者かに車を奪われ......。
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アーチャーシリーズの方向性が完全に確立されたことで知られる作品です。家庭の問題をテーマに取り上げつつも、予想外なところで殺人が発生し、さらに、それが息子の失踪に絡んでくるという意外な展開を緻密な構成に基づいて組み立てているのが見事です。アーチャーの推理が二転三転するところなどもよくできた本格ミステリを読んでいるような満足感を味わうことができます。ただ、完全な本格ミステリとしてみた場合は犯行が行き当たりばったりで真相の意外性も今ひとつだという欠点はあります。しかし、ハードボイルドである本作にそこまで求めるのは酷というものでしょう。本格ミステリとハードボイルドのハイブリッド作品としての完成度は高く、また、ロス・マクドナルドにしては珍しい希望のあるラストも読みどころとなっています。シリーズを語る上で欠かせない傑作です。


ウィチャリー家の女(1961)
大富豪のホーマー・ウィチャリーは21歳になる娘・フィービーの捜索をアーチャーに依頼する。彼女は船で出掛けるホーマーを見送ったのち、霧の立ち込めるサンフランシスコの波止場から忽然と姿を消したのだ。調査を始めると、事件の当日、ホーマーの前妻であるキャサリンが現れてひと騒動あった事実が判明するが、ホーマー自身はそのことについて詳しく語ろうとはしなかった。アーチャーは疑念を覚えつつも、ひとまずフィーバーの住んでいた下宿を訪れることにするが.........。
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長きに渡って『さむけ』と並んでシリーズツートップに位置づけられていた作品であり、読んでいなくてもタイトルは耳にしたことがあるという人は多いのではないでしょうか。その魅力はなんといっても、抑制のきいた文章によって上流階級の家庭の崩壊を克明に描いている点にあります。それはマクドナルド自身が実際に体験してきたことでもあり、その深みのある描写は他の追随を許しません。また、物語が進むにつれて絶望感が増していくプロットにも唸らされます。余韻が残る静かな幕切れも見事の一言です。一方、本作には本格ミステリさながらのトリックも用意されているのですが、そちらは少々無理があり、シリアスなドラマのリアリティを損なう結果となっています。近年ではそのことなどが理由で、本作の世評は以前ほど高くなくなっているという印象を受けます。


縞模様の霊柩車(1962)
幼い頃に実母に見捨てられ、孤独を纏った奔放な女性に育ったハリエットは25歳になると50万ドルに及ぶ伯母の遺産を相続することになっていた。そんな彼女がメキシコから得体のしれない男を連れて帰ってくる。退役軍人で彼女の父であるブラックウェル大佐は画家だというその男が金目当てで娘に近づいたのではないかと疑う。しかも、彼の素性を調べるように依頼されたアーチャーが調査を開始した直後、ハリエットと男は忽然と姿を消してしまうのだった。
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『ウィチャリー家の女』と『さむけ』という2大有名作に挟まれ、割りを食っている感がありますが、実際のところはシリーズ最高傑作に挙げてもおかしくないほどの名品です。ただ、両作品と比べると今ひとつ凄みに欠け、地味な印象なのがマニアックな評価に留まっている要因なのでしょう。しかし、一方で、地道な捜査シーンの中にさりげなく伏線を張り巡らせ、終盤にかけて二転三転していく展開はミステリーとしての面白さに満ちています。そして、その中できっちりと悲劇性を演出してみせる手管が見事です。真相の意外性も申し分なく、本格ミステリとしても高く評価することができます。それだけに、物語としての単調さが評価を分けそうです。


さむけ(1964)
ある事件の証言をするために裁判所に出向いたアーチャーはそこでアレックス・キンケイドという名の青年に呼び止められる。新婚旅行の初日に謎の失踪を遂げた花嫁のドリーを探してほしいというのだ。調査をすると、アレックスが海岸で日光浴をしている間に灰色のアゴひげを生やした男がホテルにドリーを訪ねてきた事実が判明する。ただ、ドリーがその男と一緒に出て行ったわけではなく、男が帰ってからドリーが一人で出て行ったということらしかった。やがて、アゴひげの男はホテルの近くの酒屋で働くチャックという名の中年男だと判明する。彼の話によると、たまたま見かけたドリーが生き別れの娘によく似ていたのでホテルを訪ねて面会をしたが人違いだったという。だが、ほどなくチャックは姿をくらまし........。
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シリーズ最高傑作というだけでなく、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』やダシール・ハメットの『マルタの鷹』などと並んでハードボイルド小説の最高峰と目される名作中の名作です。まず、興味深い導入部で一気に読者を引き込み、以後も語り口に淀みというものがありません。展開が非常にスピーディである一方で、作品そのものからは渋みがにじみ出ているところに名品の香りがあります。とはいうものの、序盤は人間関係が錯綜してなかなか話が見えてこないので少々じれったく感じるかもしれません。しかし、過去の出来事が明るみになって事件の構図が一変してからは、怒涛の展開が続きます。そして、白眉といえるのがあの有名なラストシーンです。どんでん返しの衝撃と物語に深い余韻を与えてくれる結末はミステリー史に残るものでしょう。ミステリー好きなら見逃すことのできない必読の書です。
さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)
ロス・マクドナルド
早川書房
1976-09-01


ドルの向こう側(1965)
大実業家の息子であるトムが少年院から脱走した。少年院の院長に彼の捜索を依頼されたアーチャーは、手掛かりを得るためにトムの実家を訪れる。そして、トムが誘拐され、身代金の要求があった事実を知るのだった。ひそかに調査を続けるアーチャーはやがてトムが年上の女と行動をともにしていたという情報を掴む。だが、彼が行きついたのは血まみれの女の死体だった......。
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本作もまたシリーズ最高傑作に推す人が多い作品であり、話が進むにつれてどんどん謎が深まっていき、やがて意外な真相にたどり着く展開はミステリーとして無類の面白さがあります。特に、犯人の正体を巧みに隠すミスディレクションの妙が見事です。同時に、家庭の悲劇をテーマにした物語はもはや円熟の域に達しており、若者のアイデンティティや親子間の断絶の問題をテーマにした物語は奥深く、芳醇な香りすら感じさせてくれます。アーチャーも初期の作品には見られなかった自然体のカッコよさがにじみ出ており、あらゆる点で隙のない傑作だといえます。
1965年ゴールドダガー賞受賞


ブラックマネー(1966)
銀行の重役の息子であるピーターから、フランス人らしい男の元に走った婚約者を連れ戻してほしいという依頼を受けるアーチャー。問題の男の素性を洗ってみると、どうやらラスベガスで悪い仲間とつるんでいるらしいことが判明する。育ちの良い娘が一体なぜ、そんな男の元に走ったのか?やがて、それは7年前に起きた入水自殺と結びついていく......。
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複雑な人間関係を紐解いて意外な真相にたどり着くという展開はいつもと同じなのですが、本作に限っては少々ヒネリすぎて切れ味が今ひとつな印象を受けます。それに、物語半ばまでこれといった事件が起きないので少々冗長に感じるのもマイナス点です。とはいえ、かなりのページを残して事件が解決したかと思えば新たな展開を見せたり、本作のヒロインで事件の中心人物でもある筈のジニーが最後までとらえどころがなかったりと変化球的な面白さがあります。また、依頼人のピーターと熟年の域に達したアーチャーの疑似親子的な関係も興味深く描かれています。完成度が高いとはいえないものの、単なる凡作として切って捨てるには惜しい作品です。


一瞬の敵(1966)
高校に通うごく普通の少女のはずだったサンディがショットガン片手に家出をした。彼女の両親は前科者の恋人、デイヴィと一緒のはずなので連れ戻してほしいとアーチャーに依頼する。そして、一度は確保に成功したものの、隙をつかれて再び逃走を許してしまう。あとに残されたのは、サンディの父の雇い主であるハケットが所有している広大な地所の地図だけだった。果たして2人の狙いは何なのか?
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登場人物が多いうえに家系図まで登場し、人間関係はかなり錯綜しています。そのため、読んでいるとこんがらがってきそうになります。さらに、途中で状況が二転三転していくため、物語を理解するだけでも一苦労です。その代わり、終盤に入るとトリッキーな仕掛けが明らかになり、今まで不可解だった事象がロジカルに解けていくさまは見事としかいいようがありません。アメリカ社会における家庭の悲劇といういつものテーマがミステリーの謎を解くことで浮き彫りになっていく趣向も実によくできています。ただ、登場人物が多すぎるために存在意義がよくわからない人がいたり、プロットを無駄にこねくりまわしているような印象を受けたりする点は好き嫌いのわかれるところではないでしょうか。
一瞬の敵 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ロス マクドナルド
早川書房
1988-01


別れの顔(1969)
アーチャーは弁護士からの依頼で盗まれた金の小箱の捜索を引き受ける。盗難の被害にあった婦人には事情があり、秘密裏に解決しなければならないというのだ。調査を続けていくうちに内部の人間が手引きをした可能性が濃厚となる。そして、最も怪しいのは婦人の一人息子であるニックだ。だが、事件はそれだけでは終わらず、アーチャーはニックと揉めていた男の死体に行きあたってしまう.......。
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本作も前作に負けず劣らず人間関係が錯綜していますが、その複雑さを我慢して読むだけの価値はあります。曖昧模糊とした事件の全体像が終盤で一気に組み上がっていくので、最後に大きなカタルシスを味わうことができるのです。しかも、本作はジャンル的にはサイコサスペンスであり、時代の先取り感が半端ありません。作者の精神分析や心理学に対する探究心が行きつくところまできたという感じがします。ずっしりと重い読み応えといい、後期マクドナルドを語るうえで外せない作品だといえるでしょう。ただ、真相そのものはいつもの本格ミステリに近い方向性ではなく、もろにサイコサスペンス的なオチになっているため、謎解きの面白さを期待した人は肩透かしをくらうかもしれません。
別れの顔 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-5)
ロス・マクドナルド
早川書房
1977-07


地中の男(1971)
山火事がサンタ・テレサを襲う。アーチャーは依頼人であるジーン・ブロードハーストとともにそのサンタ・テレサに向かっていた。ジーンの夫であるスタンリーが連れ出した息子のロニィを取り戻すためだ。スタンリーはロニィと正体不明のブロンド娘を連れだってサンタ・テレサに入っていったという。ほどなくスタンリーが発見される。ただし、彼は地中に埋められ、死体となっていた。一体誰が彼を殺したのか?そして、ロニィとブロンド娘の行方は?
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山火事の焼け跡から男の死体が埋められているのを発見するという一見派手な道具立てを用意しながらも、あくまでも落ち着いた筆致で描かれている点がいかにも後期アーチャーシリーズです。それだけに、迫りくる山火事がサスペンスを盛り上げる役割をあまり果たしていないのは不満の残るところです。そもそも、物語の大半が関係者に話を聞いて回るだけなので、むしろシリーズ後期の中でもかなり地味な部類の作品です。その代わり、残り3分の1ぐらいになってから二転三転し、謎解きとともに物語が収束していくさまはもはや名人芸の域だといえます。派手さはありませんが、円熟の極みを味わうことができる佳品です。
地中の男 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 8‐11))
ロス・マクドナルド
早川書房
1987-01


眠れる美女(1973)
石油流出事故によって海岸一帯は原油まみれになっていた。その地でアーチャーは鳥の死がいを抱きしめて泣いている美女と出会う。彼女の名はローレル・ラッソ。事故を起こした石油会社の社長であるジャック・レノックスの一人娘だった。アーチャーはその翳りのある美しさに魅了され、自分のアパートに彼女を連れて帰る。だが、彼女は致死量に達する睡眠薬を持ち出して姿を消してしまうのだった。夫のトムから調査依頼を取り付けたアーチャーはローレルの捜索を開始するが、やがて、父のジャックの元に身代金要求の電話がかかってくる.......。
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このころになると批評家たちからはマンネリ化や筆力の衰えなどが指摘されるようになりますが、それでも十分読み応えのある作品に仕上げているのがロス・マクドナルドの凄いところです。さすがに『さむけ』や『縞模様の霊柩車』といった全盛期の作品と比べると落ちますし、真相の意外性などには欠けるきらいはあるものの、本作においても二転三転するプロットは健在です。しかも、そのミステリー要素と重厚な人間ドラマが喧嘩し合うことなく、ひとつの物語として調和がとれている点はやはりマクドナルドならではの味わいだといえます。それに加え、痛ましく哀しいドラマを象徴する人物であるローレルの存在感がこの作品の魅力を押し上げています。ほぼ冒頭とラストにしか登場しないのですが、その儚げな雰囲気が読者に忘れ難い印象を与えてくれるのです。確かに、比喩が説明っぽくなっていたり、同じ表現が何度も繰り返されていたりと、ところどころに老いを感じさせる部分はあります。しかし、物語のクオリティは決して低くありません。むしろ晩年においてここまでの作品を生みだせることのほうが驚きです。
眠れる美女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ロス マクドナルド
早川書房
1990-01


ブルー・ハンマー(1976)

一通の手紙を残し消息を絶った幻の画家、リチャード・チャントリー。彼の作品だとされる絵が盗まれ、アーチャーはそれを取り戻してほしいという依頼を受ける。だが、チャントリーの妻を訪ねてみると、その絵は夫の作品ではないという。それではなぜ、問題の絵がチャントリーの作品だといわれ続けているのか?やがて、アーチャーがたどり着いたのは画家を巡る錯綜した人間関係とそれに絡んだ過去の殺人事件だった。
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いつもの人探しとは異なり、今作は絵探しから物語が転がっていくという展開になっています。その影響なのか、作品の雰囲気がいつもより明るめなのが目を引きます。それに加え、50代のアーチャーが恋煩いをし、若い女性と結ばれるのだから驚きです。一方、ミステリーとしては二転三転どころか、四転五転し、謎解きの面白さを存分に味あわせてくれます。真相そのものはマクドナルド作品のパターンを知っていればそれほど意外ではないのですが、そこにたどり着くまでの道筋が波乱万丈で読み応えがあるのです。全体的に見ればやや迷走している感があるものの、本作には中期から後期にかけての陰鬱で重厚なミステリーから脱却し、新しい作風を確立しようとする意志が感じ取れます。このまま順調に作品を発表し続けていたならば、今までに味わったことのない新たなマクドナルド作品を楽しむことができたはずです。それだけに、アルツハイマーの発症によって、これが遺作になってしまったことが惜しまれます。


おわりに
作家としては妻のマーガレット・ミラーと共に大成功を収めたロス・マクドナルドですが、その私生活は決して幸福なものではありませんでした。まず、1956年に一人娘のリンダが飲酒運転でひき逃げをし、マスコミに大々的に報道されることになります。その後、リンダは保護観察処分を受けながらも大学に進学しますが、1959年には失踪事件を起こします。そして、マクドナルドは娘の行方を追うために睡眠もろくにとらずに駆け回り、結果として健康を著しく損ねることになってしまうのです。結局、リンダはマクドナルドが雇った探偵によって無事に保護されたものの、1970年に薬物の大量摂取によって30歳の若さでこの世を去っています。マクロナルド自身もその7年後にアルツハイマーを発症させ、1983年に67歳で亡くなっています。予想外の不幸の連鎖にいささか驚いてしまいますが、そのおかげで作家として一皮むけ、『さむけ』をはじめとする名作の数々を生みだすことができたのだと思うと人生の皮肉を感じずにはいられません。