最新更新日2017/1/10☆☆☆

戦前から戦後にかけて欧米ではすぐれた本格ミステリが数多く輩出されましたが、昭和の時代においては、その多くは日本の読者の目に触れることはありませんでした。アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ディクスン・カーなどといったビッグネームばかりがクローズアップされ、その他大勢の作家はよくて1作か2作が翻訳されただけでその他の良作はそのまま長年放置されていたのです。それが、90年代後半からの翻訳ブームによって、ようやくそれらの作品にも光が当たり始め、名前だけ知られていた作家の全貌が明らかになってきました。ヘレン・マクロイもそのひとりです。
女性初のアメリカ探偵作家クラブ会長という大物にも関わらず、マクロイ作品でまともに読めるのは『暗い鏡の中に』だけという時代が長く続いていました。しかも、サスペンスの女王と呼ばれているなどといった情報だけが入ってくるので、彼女に対するイメージはより偏ったものになっていきました。しかし、実際のところ、ヘレン・マクロイは同世代のクリスチアナ・ブランドにも比肩するほどのすぐれた本格ミステリの書き手でもあったのです。そして、その代表的存在がベイジル・ウィリング博士シリーズです。果たしてそれがどのようなものであるのか?未読の人のためにシリーズ全作ををご紹介します。


①死の舞踏(1938)
シリーズ探偵のウィリング博士初登場作品にしてマクロイのデビュー作。
冬のニューヨークで雪の中から発見された若い女の死体。しかし、極寒の環境下にも関わらず、死体の全身からは激しい熱が発せられていた。
死体の熱の謎は大したことはなく、中盤にはその謎は解かれてしまいますが、伏線を収束させながらの犯人探しは見事で、デビュー作ながら彼女の持ち味を存分に見せつけてくれます。ウィリング博士の心理学的推理に関しては、80年前の作品だけあってさすがに怪しい部分はあります。しかし、随所に思わずうなってしまう見事な推論があり、その魅力は色褪せていません。なにより、黄金期の作品にも関わらず、動機が現代にも通じるものであるのが、マクロイならではの先見性の妙です。全体的に展開が平坦で傑作というにはいささか軽量級ですが、彼女の凄みの片鱗が垣間見れる佳作です。

死の舞踏 (論創海外ミステリ)
ヘレン マクロイ
論創社
2006-06


The Man in the Moonlight(1940)
ウィリング博士と彼の妻となるギセラとの出会いが描かれている作品ですが、現在のところ未訳です。今年、東京創元社から発売される予定なので、非常に楽しみです。

③ささやく真実(1941)
いたずら好きの美女クローディア。彼女が知り合いの研究室から自白剤を盗み出し、ドリンクに入れてふるまったところ、パーティー会場はまさかの大暴露大会になってしまう。そして、それがもたらした結果なのか、グローディアはその夜、何者かによって殺害されるのだった。
非常にリーダビリティの高い作品です。自白剤を飲んで秘密を暴露し合うシーンでつかみはOK。その後も場面転換が早く、二転三転する展開に読者は飽きる暇もなく、ぐいぐいと引っ張られていきます。そして、最後の伏線回収も実に見事です。ベーシックでありながら極めて高度な技巧を凝らした完成度の高い本格ミステリと言えるでしょう。
ささやく真実 (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ
東京創元社
2016-08-31


④あなたは誰(1942)
クラブ歌手のフリーダは婚約者のアーチと共に彼の故郷に向かおうとするが、そこに、「行ってはならない」という警告の電話が入る。それを無視して彼の実家に向かうフリーダだったが、アーチの実家に到着するやいなや、彼女の部屋は何者かに荒らされ、そして、隣の家で催されたパーティーの最中に殺人事件が発生する。果たして電話の相手と殺人犯人は同一人物なのだろうか?
容疑者は5、6人と少ないのですが、容易に犯人を絞らせないように工夫がされており、一級のフーダニットに仕上がっています。また、メインの仕掛けは現代から見ればありがちなものであり、その点は厳しい評価になるかもしれません。しかし、そこにひねりを加えており、ワンアイディアだけに頼ってない点は、さすがはマクロイです。

あなたは誰? (ちくま文庫)
ヘレン マクロイ
筑摩書房
2015-09-09


⑤家蝿とカナリア(1942)
劇場の隣にある刃物屋に忍び込んだ夜盗は何も盗まずに鳥籠のカナリアを解放し、劇場からは芝居の小道具として用意した外科用メスが紛失する。劇場周辺で奇妙な出来事が立て続けに起こる中、舞台の最中に衆人環視の中で殺人事件が発生する。この大胆不敵な犯行を成し遂げたのは一体誰なのか?
相変わらず、伏線を巧みにちりばめてそつなく回収する手際が見事。特に、犯人はなぜカナリアを解放したかの解答が秀逸です。派手さのない地味な作品ですが、推理しながら読書する楽しみに満ちたフーダニットの傑作です。

家蝿とカナリア (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ
東京創元社
2002-09


⑥小鬼の市(1943)
第二次大戦真っ最中。カリブ海の島国に流れてきた青年、スタークは新聞記者として働くことになるが、彼の前任者の死に疑念を持ち、調査を始める。死者の残した言葉、『小鬼の市』とは一体何を意味するのだろうか?
ウィリング博士シリーズの中ではかなりの異色作です。全体に戦時色の濃い冒険スリラーといった趣があり、そこに謎解きの要素を組み込んだ作りになっています。ウィリング博士はなかなか姿を現さず、しかも、シリーズ外作品である『ひとりで歩く女』のウリサール警部が登場するなど今までのウィリングものとは明らかに毛色が違っています。シリーズの番外編といったところでしょうか?派手なスパイアクションあり、どんでん返しもありとこれはこれで読みごたえはあるのですが、シリーズの読者が求める方向性とはあまりにもベクトルが違うため、賛否が大きく分かれる結果となっています。

小鬼の市 (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ
東京創元社
2013-01-29


⑦逃げる幻(1945
ひとりの少年が障害物が何もない荒野から忽然と姿を消す。そして、その数日後、彼の家庭教師が何者かに殺害されるという事件が起きる。人間消失と密室殺人に挑むウィリング博士。
はっきりいって不可能犯罪のトリック自体は大したことはありません。ディクスン・カーばりのど派手なトリックを期待すると肩透かしを食らうでしょう。しかし、それ自体がミスディレクションととして機能しており、さらなる仕掛けが炸裂する点がマクロイの真骨頂です。また、前半は特に事件も起きずゆったりと物語は進みますが、中盤以降はたたみかける展開でページをめくる手が止まらなくなります。そして、恒例の怒涛の伏線回収が始まり、全く予想外の真相へと着地します。この真相の隠し方が実に見事です、マクロイの匠の技がいかんなく発揮されたシリーズ中期の名作と言えるでしょう。

逃げる幻 (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ
東京創元社
2014-08-21


⑧暗い鏡の中に(1950)
女教師のフォスティーナはある日突然、学園長から解雇を告げられる。しかも、説明を求めても解雇の理由を頑として語ろうとはしないのだ。ウィリング博士に調査を依頼したところ、彼女のドッペルゲンガーが頻繁に目撃されたことが、解雇の理由だという。信じがたい話に愕然とするフォスティーナだったが、その矢先に学園から死者がでてしまう。
『暗い鏡の中に』は20世紀において唯一まともに読めるウィリング博士シリーズだったわけですが(『幽霊の2/3』も翻訳はされていましたが、入手困難でした)、それが誤解を生む一因となりました。本書は優れたサスペンス小説であり、ドッペルゲンガーの謎に関しては一級のホラー小説にも似た底冷えのする恐怖があります。しかし、その一方で、推理小説としてのロジックは結構雑で、伏線の魔術師とでもいうべきいつものキレがありません。それに関しては本書の真の狙いが謎解きの他にのである意味やむを得ないのですが、他のマクロイ作品を知らない読者に「雰囲気はいいけど、本格ミステリはあまり得意でないサスペンス小説寄りの作家」だという誤った認識を植え付ける結果になってしまったのです。『小市の鬼』と並んでシリーズの最初に読むべきでない作品だと言えるでしょう。ちなみに、『歌うダイヤモンド』収録の短編、『鏡もて見るごとく』は本書の原型であり、内容もほぼ同じなのでその点も注意してください。

暗い鏡の中に (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ
東京創元社
2011-06-21


⑨ふたりのウィリング(1951)
「私はベイジル・ウィリングだ」と名乗り、タクシーで走り去る男。その場に居合わせた本物のウィリング博士は驚いて彼の跡を追い、ある屋敷で行われていたパーティーに潜入する。ウィリング博士は、偽者を屋敷から連れ出し、なぜ自分の名を騙ったのか問いただすが、男は急に苦しみだして死んでしまう。「鳴く鳥はいなかった」という謎の言葉残して…
中盤はやや中だるみし、終盤のスリラー寄りの展開も賛否が分かれるところですが、相変わらずの丁寧な伏線回収によって上質な本格ミステリの味わいが堪能できます。そして、最後に提示された大胆な犯罪の構図こそがこの作品の白眉でしょう。真相へと至るヒントは物語のあらゆるところに配置されていますが、それを悟らせないマクロイの語りのうまさが存分に発揮されています。

二人のウィリング (ちくま文庫)
ヘレン マクロイ
筑摩書房
2016-04-06


⑩The Long Body(1955)
未訳作品。
『The Man in the Moonlight』の翻訳本が今年発売されることが決まっている現在、この作品がウィリング博士作シリーズの最後の未訳本となりそうです。


⑪幽霊の2/3(1956)
出版社の社長宅でパーティーが行われる。しかし、余興で幽霊の2/3というゲームを行っている最中に出席者のひとりである人気作家が毒殺されてしまうのだ。パーティーの出席者は皆この人気作家の恩恵に預かっている人間ばかりで、一見動機がありそうな人物はいない。しかし、ウィリング博士が捜査を続けていく内に複雑な人間関係が明らかになっていく。
一部ではマクロイの最高傑作との声があがるほど評価の高い作品ですが、ミステリーの仕掛け自体ははっきりいってチープです。毒殺トリックに関しては今となっては目新しさ皆無ですし、犯人の意外性も特にありません。本書は謎解きよりも、被害者である作家に焦点を当て、その背後にある錯綜した人間関係を紐解いていく語り口の妙を楽しむ作品なのです。また、出版界の内幕を皮肉たっぷりに暴いていくところも本好きの人にとっては興味を引かれるでしょう。そして、なんと言ってもタイトルが秀逸です。マクロイの作品のタイトルはそれ自体が伏線となっているものが多いのですが、これはその極みです。もしかすると、このタイトルに秘められた意味がわかる瞬間が最大のサプライズかもしれません。逆に言えば、そういったものに興味がなく、ストレートな本格ミステリを楽しみたい人にとっては期待はずれの作品となる可能性が高いため、読むか否かの判断は慎重に行った方が賢明でしょう。
幽霊の2/3 (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ
東京創元社
2009-08-30


⑫割れたひづめ(1968)
妻のギゼラとスキー旅行に出かけたウィリング博士。ところが車が雪に阻まれ、立ち往生してしまう。屋敷を見つけ、そこに宿泊することになるが、その家には開かずの間があり、そこで眠ると割れたひづめの悪魔が現れて死を迎えるという。果たしてポルターガイスト騒動が起き、その謎を解明するために開かずの間で寝ずの番をしていた男が死体となって発見される。
『暗い鏡の中に』を発表した1950年頃からベーシックな本格ミステリからサスペンス小説へとその作風を徐々に変化させていったマクロイですが、本書を発表した1960年代には完全にサスペンスの人になっており、本書も久しぶりに書いた本格ミステリです。その影響なのか、中盤までのサスペンスの盛り上げ方は素晴らしいのに後半の謎解きには荒さが目立ちます。トリックがチープなのはいつものことだとしてもそれを補強する創意工夫に欠けているのです。そうかといって、『暗い鏡の中に』のような意表をついた趣向もなく、全体としては凡作と言わざるを得ない出来です。
割れたひづめ 世界探偵小説全集 44
ヘレン マクロイ
国書刊行会
2002-11


⑬読後焼却のこと(1980)
数多くの作品をこき下ろし、業界の嫌われ者となっている覆面書評家のネメシス。ある日、文筆業の人々に部屋を貸している女流作家のハリエットは、ネメシス殺人計画のメモを目にし、ネメシスが間借人の中にいることを知る。果たして誰がネメシスでその命を狙っているのは誰なのか?やがて、弁護士がハリエットの家で殺され、死体と一緒に精神を病んだ彼女の息子が目撃されるが…。
前作の『割れたひづめ』は12年ぶりのウィリング博士シリーズでしたが、本書はそこからさらに12年経っており、時代はすでに80年代です。マクロイも75歳で、これが彼女の最後の作品となりました。『幽霊と2/3』と同じく出版業界を巡る物語であり、作家や書評家の人間関係や心理描写が興味深く描かれています。第2回ネオウルフ賞に輝いたのは、その辺が評価されたからでしょう。しかし、謎解きには往年のキレはなく、非常に淡泊です。過度な期待は抱かずに、マクロイのファンが最後に読むべき作品と言ったところでしょうか。

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